2017年11月2日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識


3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識
 戦略理論の欠如の重要な要素の一つは、心理的不安定の原因となるアイデンティティーと歴史意識の間の矛盾とその矛盾が戦略思想に与える影響である。既に心理学の古典となったレインの『引き裂かれた自己』がこの問題を解明する出発点になる。自我の分裂に道を開く心理的危機を究明するこの作品は、心理学以外にも利用できる多種多様な分野における危機を分析する重要な概念と方法論の道具立てを提供している。特にレインが明らかにした実存的安心と自我の関係と、「具体化された(embodied)自我」と「具体化されない(unembodied自我」を区別することで立証したクリティカルな領域、とりわけ政治の領域における多くの問題に関する我々の理解を容易にしてくれる。
 レインは、心理学的危機の根本には、個人の実存とその自我の結びつ断絶が見出されると述べ、そしてその断絶が不可避的に自我の分裂をもたらすことを解明した。自己の実存を疎外する人物は、やがて、自我の諸要素の統合性を失う一方で、他者に対しては自己を統合的に見せかける虚偽自我(false-self)の像を作り出す。内的自己(Inner self)と外的自己(embodied self)の間に裂け目が開かれると、危機は深刻化し、自分自身と外部環境の双方との間で発生する危機の迷路に入り込んでしまう。
 トルコで起きている多面的な危機もまた、内的自己と外的自己の間の分裂の所産とみなされる。共同体のレベルで、個人の実存に対応するものが、その歴史と地理の次元である。共同体が歴史と地理の次元で自己疎外を起こすと、個人が自己疎外を起こして、虚偽自我に陥るのと似ている。周知のように小学校から歴史と地理の教育に多くの時間が割かれているにもかかわらず、我々は一種の没歴史化の時代を生きている。記念日や祭日を祝うことは我々の歴史の知識を強化する代わりに、超歴史的分野への方向性に道を開いている。1998年にはトルコ共和国建国75周年、1999年にはオスマン帝国建国500周年が祝われた。しかし共和国の10周年行進曲やオスマン帝国のトルコ行進曲(mehter)は、メタ歴史的レベルでの認識を超えて、今日まで連なる我々のアイデンティティーのさまざまな全ての要素を統合する個人アイデンティティー意識と社会的全体性によって、我々は表現することができるだろうか?
 伝統の諸要素を受け入れずに、我々のアイデンティティーを偽装すれば、その対極をもたらすことになる。そして内的自己からかけ離れた虚偽自我に続き、隣接する別人たちと同一化しするうちに、ついには、「他者」、敵さえも生み出すことになる。我々の聖なるシンボルのためには戦いも辞さず、引き裂かれた自己の裂け目を埋めようとするが、歴史と地理の次元のすべてを断ち切った新たな引き裂かれた自我を生み出したことには気付くことができない。
 内的自己と外的自己の間の裂け目を覆い隠すために、安っぽい勝利に酔い、同じように安っぽい退廃に陥る。我々はサッカーの試合でのトルコの勝利に10周年行進曲に熱狂し、フィンランドに負けたことを審判の贔屓のせいにしている。それゆえ、自分たちの成功を訓練された努力の成果とみなすことも、失敗から学ぶこともできず、事実ではなく事実を超えた心理に目を向け、個人のレベルでの問題においてと同じように、自分たちの実存、つまり歴史を疎外し、また自分たちの環境、つまり地理的次元も断絶するのである。
 歴史の記憶と意識が弱い共同体は、その歴史に実存を記銘することが非常にむつかしい。歴史の方向を決める場合、主体的で活動的な共同体と、歴史の成り行きまかせの主体性を欠く受動的な共同体の間の極めて重要な違いもまた歴史的認識の型である。
 歴史の意識と記憶が深い共同体は、思いがけない勝利に浮かれることも、敗北主義に陥ることもない。歴史経験から得た情報と現実の力の配置の間に、戦略的合理性と予想に基づく有意味な関係を構築し、慎重に未来図を描くのである。歴史の意識と記憶が弱く受け身で主体性がない共同体は、取り残されるか、取るに足らない成功に酔ったり些細な失敗に落ち込んだりを繰り返す心の弱さから、戦略的決定を下すことができなくなる。それゆえいつも浮沈を経験しするが、成功も失敗も他人次第なのである。
 この観点から見ると、さかんに議題にのぼったセーブル条約の共和国建国75周年記念とオスマン帝国建国700年記念が重なったことは意味のある一致である。セーブル条約はオスマン帝国とトルコ共和国の間の「狭い海峡」である。この「狭い海峡」を我々が生き、乗り越えてきた。しかし生きてきたということは、我々がその間ずっとこの「狭い海峡」の恐怖の中で生きてきたということではなく、またこの「海峡」を乗り越えるにもずっと勝利の思い出に浸っている必要はない。
 フランス人は今日の存在を続け、戦略的計画を立てるのに、ナポレオンの勝利をずっと思い起こして勝利に酔い痴れているわけでもなければ、ナポレオンの敗北の後のフランス人の命運を握ったウィーン会議の成り行きをいつまでも気に病んでいるわけでもない。同様にドイツ人も、ビズマルクとヴィルヘルム2世によるドイツのアイデンティティーと統一を実現した帝国的勝利が今もドイツの戦略的言説の中心をなしているわけではなく、またセーブル条約が我々を陥れた「狭い海峡」にも似た「狭い海峡」に陥れたヴェルサイユ条約を、自分たちの頭上でずっと揺れているデモクレスの剣のように見なし続けているわけではない。もっと近い過去の例を取るなら、ヒットラーの華々しい軍事的勝利と、その勝利の後の全世界にドイツ民族を軽蔑させ、破壊し、呪わせた敗北を共に経験したアデナウアー、シュミット、コールのようなドイツの指導者たちが、このような勝利-敗北の振り子の不可避の振幅に一喜一憂していたなら、はたしてドイツは今日、歴史の舞台の上、歴史の流れの中で、再び重きをなす国となることができたであろうか。
 戦略意識は歴史に、戦略計画立案はその時点でのリアリティーに基づかなければならない。
我々にとってのセーブル条約の記憶と認識は、それに至る過程における我々の問題点を視野に収めた分析によって、評価を下すことができるなら、意味あるものとなる。しかし逆に我々を金縛りにし自己弁護に終始させるような心的トラウマに突き動かされていては、前に進むことはできず、新しいセーブル条約への道を開くことになるのである。物事を歴史の流れの中において見ることができるほど、我々は弱点を克服することができる。
 グローバルな、あるいは地域的な野心を持つ国家はしばしば何世紀にもわたる歴史的、地理的、文化的な土台である定数に根差していればいるほど、繰り返しダイナミックに解釈されうる長期的なビジョンを有する戦略思考に基づいた未来志向の戦略計画を立てることができる。対外的な脅威の認識については、長期的な戦略を短期的な戦術に落とし込むことができ19世紀には「太陽が沈むことがない」帝国となったイギリスには長期的で野心的な戦略があったが、力をつけた大国となったドイツがこの(イギリスの)戦略に挑戦する脅威として認識された。第二次世界大戦後、グローバルで野心的なアメリカの戦略が練り上げられたが、ソ連の脅威がこの戦略を妨げる脅威として認識されることで戦術が査定され決められた。日本には太平洋戦略、ドイツには7B(ベルリン-ブダペスト-ベルグラト-ビュクレシュ-ボアズラル-バグダト-ボンベイ)ユーラシア戦略があったが、ドイツも日本も何世紀にもわたるその遠大で野心的な戦略には短期的な脅威の認識が欠けてはいなかった。手段は変わっても、戦略の基本と優先事項は不変なのである。
 野心のある国家はその戦略に従って脅威を認識するが、主体性がなく受け身の国家は脅威の認識に左右され近視眼的な戦略を立てる。国家は、理由が何であれ、内部矛盾こそが戦略の基本であると明言している限り、その国が二度と弱体化することはありえない。
 他の国の経験からこの問題を自問すれば、この問題をより明らかに理解することができる。IRAの存在の脅威は、少なくとも3世紀にわたって、イギリスの国家戦略、軍事戦略の認識を規定してきたのではなかったか。オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(1995年)を起こしたキリスト教原理主義白人優越主義民兵の存在を理由に、グローバルなアメリカの国家的、軍事的戦略がこの民兵たちによって再構築される必要があると言う戦略家が、アメリカでいかなる戦略研究機関に就職できるだろうか?冷戦期にドイツで活動的であった極左テロ組織は、ドイツの東西戦略の中でどう位置付けられていたのか?あるいは国家の内部矛盾を基本的な戦略の優先事項とみなしているようなら、影響力のある戦略を実効に移すことができる野心的な大国の一つになることができるだろうか?わかりやすく、我が国の歴史を例に取ろう。16世紀の「オスマン帝国の時代」を作ったオスマン帝国の大陸と海洋の戦略はこの世紀に広まった「ジェラーリーの乱」を基本とする土台で組織化されるなら、オスマン帝国のこの政界での秩序を作る主張である「世界秩序(Nizam-ı Âlem)」構想など、笑うべき非現実的なレトリック以上のものであったであろうか?
 この国の戦略を単なる一極の外敵脅威とみなす視野狭窄は、内的脅威によって認識するなら、仮想敵国を利する弱点となる。ポスト冷戦期の歴史的地理的深みを有するダイナミックなトルコの戦略の定義と実行が必要な時代に、制度的、歴史的、心理的要素によって、トルコの内部矛盾による衰退過程を説明することは、トルコ民族の全ての力を動員する共通戦略構築に対する最も深刻な障害となるのである。

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