2017年9月19日火曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 1章 2節:人材とその戦略への影響



Ⅱ.人材とその戦略への影響
 パワーの定式においては、定数と変数は組み合わされて相互に影響する。つまり、歴史、地理、人口学的、文化的要素、そしてその他の要素の影響の合計がパワーに及ぼす影響の規模となる。そのための定式によって、すべての指標によって示されているのである。戦略思考、戦略計画、政治意志は、これらすべての要素に、わかりやすい例として大きく影響する。つまり、定数や変数にどれだけ大きな優位があるとしても、戦略的に思考せず、戦略的計画と戦略的意思を十分強く一貫して行動に移さない国家は、パワーを実現することはできない。(逆に)時にはネガティブな戦略立案と政治的意思があれば、マイナスの乗数さえ、定数と変数の総計である(国家の)パワーを減ずるという形で実現される。
 第一次世界大戦で、特に、コーカサスとパレスチナの戦線での戦略的計画の不在が道を開いた悲劇が、オスマン帝国のパワーバランスにマイナスの乗数による大いなる衰退をもたらしたことが、その分かりやすい例である。アッラーフエクベル山脈で7万人の兵士が凍死したことも、拙劣な戦略の計画が、変数としての軍隊を加速度的に弱体化させた最も明らかな例の一つである。同じ地域で数年後にカズム・カラベキル将軍がカルスとアルダハン地域を救い出した「東方作戦」は、凋落した国家の極度に弱体化した軍隊であれ、正しい一貫した戦略計画があれば通常のパワーの定式のパフォーマンスを示すことができることの良い例である。
 同様にアブデュルハミド2世の治世の政治意志を実行に移すことを可能とする外交的手段である国家の歴史と地理という定数が、加速度的な国家崩壊を(一時的に)食い込めたことは明瞭である。それとは逆に第二憲政期における政治意志の混乱は同じ定数と変数にマイナスの乗数効果を及ぼし、史上最も長く続いた国家(オスマン帝国)を終焉に導いたこともまた事実である。
 ワイマール共和国とヒトラーのドイツの間のパワーの相違も、同じ定数と変数であっても、(違って)戦略的計画に政治意志によって、いかに異なったパワーバランスに道を開くか、のもう一つの分かりやすい例である。この事実は我々の地域からの例も支持している。サウジアラビアのパワーバランスにおける最も重要な要素としての石油を中心とする経済の潜在力は、(皇太子から国王への)移行期のファイサルの治世の政治意志を伴うことで、重要なパワーの要素となったが、その後に、政治意志を欠くことにより、機能しなくなったことはだれの目にも明らかなことである。
 要約すると、国家のパワーバランスにおける重さは、定数と変数の戦略的計画と政治意志は、加速度的決定が結果的に現れた。良い戦略的計画と政治意志があること、定数と変数、弱い国に自己潜在力の上でパワーとなることを実現して、一貫性のない戦略的計画と弱い政治意志、潜在力のある国自身の基準よりもっと下がったレベルでパワーバランスを有することに道を開くことができる。
 この状況は国家の最も基本的な戦略的なパワーが人材であることを明らかにする。戦略上の定数としての地理と歴史は変えることはできない。しかしこの優秀な人材はこの地理と歴史に新しい地平を開く意味を与えることができる。(逆に)人材が劣悪であれば地理と歴史という要素が同じであっても国家は弱体化する。
 神聖ローマ‐ゲルマン帝国の内部でドイツ人がばらばらに住んでいたことは、カール大帝(814年没)以来18世紀に至るまで、歴史と地理に由来する大きな弱点であった。同じ歴史と地理の与件は、フリードリッヒ2世の手で捏ね合わせて作られたパン、ビスマルクの鉄拳の下で柱石を積み重ねた建物、ヴィルヘルム2世の手でグローバルなパワーとなった。この伝統から無敵の紋章を引き出したヒトラーは同じ地理と歴史を悪用したために大破滅を招くことになった。こうした例は大規模な戦略を展開するすべての共同体に見いだされる。
 歴史と地理に反する戦略の変数の間に場を得る経済発展は、技術的、軍事的能力は、直接的に人的要素の質と力にかかっている。質が高い、高等教育を受けた、民族の目標を体現する人材は、廃墟からでも偉大な経済を復興することができる。ドイツと日本が第二次世界大戦後に成し遂げた経済発展、アメリカの1929年の大恐慌を克服することで示したパフォーマンスは、人材と民族の戦略的団結の関係の最も分かりやすい例である。莫大な天然資源の潜在力を有する中東諸国が、その潜在力を戦略的パワーに変換できない主たる原因は、人材の欠如、あるいは良質の人材が政治制度によって戦略目標を正しく具体化できる計画に沿って組織されていないことである。
 トルコの戦略方針における最も良い例もまた人材に関わるものである。トルコは歴史と地理の与件とそれらの与件の活用を可能にする文化的下部構造の観点からは、グローバルな戦略を展開する多くの国々を羨ましがらせる蓄積を有している。しかし、それだけでは十分ではない。これらの戦略的パワーを構成しうる全ての要素も、それをダイナミックに意味づけし、変転する国際情勢に適応させ、相対立するパワーの諸要素を調整することができる牽引力があり視野の広い人材を欠くならば、これら全ての潜在力から動力を引き出すことはできないのである。こうした牽引力のある人材が存在する場合でさえ、その人材と政治制度による戦略的選好との間に調和的な理解と正当性の共有関係が成り立たないと、その有能な人材も、不適切な職場で能力を発揮できずに無駄骨を折らされることになる。
 国家の戦略的な開放性の最もデリケートで重要な要素は、制度の中枢の政治意志と社会の指導的市民の人材の間の正当性(meşruiet)共有関係である。現代において頻繁に用いられる慣用表現で言うと、「深遠な国家には深遠な国民がいる」のである。国民の深遠に達せず、その深みにおいて共有された価値システムに由来する霊的一体性を発現させることができない国家の深遠性は、粗暴なパワーになり下がるほかないのである。
 人材と政治システムの間の正当性共有関係の最も重要な点は、信頼関係である。人材の信頼をかちえることができない国家は戦略的地平を開拓することも、社会の潜在力を動機づける戦術的目標を設定することも、その戦術的目標に適した手段を正しいタイミングで実行することもできない。同様に、国家の意思決定メカニズムから疎外された人材は戦略の立案者となることも、その一翼を担うこともできない。戦略的パワーは、そのパワーを実現することができる人材を信頼することで、真の実存を獲得するのである。

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