2012年9月16日日曜日

全ては政治、全ては宗教 : 201年9月15日 同志社大学発表

昨日の同志社での発表の最初の予定稿を以下に貼り付けます。推敲前の草稿なので、誤字脱字、てにをはの間違い、平仄が合わないところなどはご愛嬌と思ってスルーしてください。 2012年9月15日 同志社大学 「全ては政治、全ては宗教」 中田考   「イスラームはよく分からない」とよく言われ、「なぜイスラーム過激派は自爆テロに走るのか」といった自問自答のしたり顔の「解説」が幅をきかせる。  こうした「疑問」が生じイスラームが分からなく思えるのは、イスラームが宗教であって政治ではない、との思い込みがあるからである。 イスラームとは「政治」である。我々が本当にイスラームを知りたいと思うなら、イスラームとはまさに政治に他ならないことを先ず理解しなければならない。しかしイスラームが政治に他ならないことを理解するためには、実は、イスラームが政治であることに我々がなぜ思い至らないのか、何が真実の認識を妨げているのか、が問われなければならない。 そして我々の思考を麻痺させ真実の認識を妨げている元凶が、現代のマジックワード「政教分離」である。イスラームの理解は、現代日本人としての我々が囚われている「先行理解=先入見(Vorurteil)」から自由になるための反省、自己吟味なくしては成り立たない。 本発表は、「政教分離」の概念の歴史的分析により、「イスラームとは政治に他ならない」と述べるべき事態に立ち至った思想状況を明らかにする。 我々が生きるこの現代世界は、リヴァイアサン「領域国民国家」を主神とし、マモン「銭神」をその配偶神とする政教一致の多神教「世俗的ナショナリズム」によって、人間の身体と精神の全てが支配された時代である。それゆえ現代においては、この政教一致の多神教によって人間の生の全てが政治/宗教化されており、人間のいかなる営為も、政治・宗教とならざるをえない。 イスラームは「政治」である、との命題が成立するは、誤解されているような、政教一致という時代を超えたイスラームの「本質」の帰結としてではない。リヴァイアサン「領域国民国家」の支配が地上を覆い尽くし、リヴァイアサンを主神とする政教一致の多神教「世俗的ナショナリズム」が人間の身体と精神の全てを支配するこの現代世界という特殊な環境において、多神教を断固否定する純正な一神教としてのイスラームは政治となることを強いられているのである。 「イスラーム」とは、アラビア語で、その原義は「服従」である。 イスラームの信仰告白の第一段、「lā ilāh illā Allāh」は「アッラーの他に神なし」と訳されるが、アラビア語のilāhは日本語の「神」とは違い、ma‘būd「奴隷として仕えられるもの」を意味する。 つまり「イスラーム」とは、アッラーだけを主として奴隷として仕える、つまり宇宙の創造主アッラーただひとりに服従を捧げることを意味する。 預言者ムハンマドの時代のアラビア半島には、国家はなく、人間を奴隷として縛っていたのは、先祖代々の慣習であった部族の慣習であった。それらを預言者ムハンマドは「ジャーヒリーヤ(無明)」と総称した。これら「ジャーヒリーヤ(無明)」には、偶像崇拝の迷信も含まれていた。 人間を隷属させる「ジャーヒリーヤ(無明)」の邪神は「ターグート」と呼ばれるが、これは木や石のいわゆる偶像「アスナーム」、「アンサーブ」などだけではなく、「ジャーヒリーヤ(無明)」の悪習によって人々を支配する有力者たちも「ターグート」と呼ばれた。  アッラーの啓典を授かった預言者に服従することは厳禁されており、アッラーの啓典に対する服従から人を逸らせるものは全て「ターグート」と呼ばれるのである。  唯一神教(タウヒード)としてのイスラームには、「主性における唯一神教(タウヒード・ルブービーヤ)」と「神性における唯一神教(タウヒード・イラーヒーヤ)」の二側面がある。  「主性における唯一神教」とは、森羅万象、人間の存在、生滅、運命を司るのはアッラーただひとりのみ、との認識である。  「神性における唯一神教」とは、アッラーだけを人間を支配し、命令したり禁止したりして隷属させることができる神として崇め、アッラーただひとりのみに服従を捧げることである。  それゆえ最も完成した唯一神教としてのイスラームとは、森羅万象、人間の存在、生滅、運命を司る創造主アッラーただひとりだけを、人間を支配し、命令したり禁止したりして隷属させることができる神として崇め、服従を捧げることに他ならず、その対極としての「ジャーヒリーヤ(無明)」とは、創造主アッラーならぬあらゆる被造物の人間に対する支配-隷属関係、と言うことができる。  クルアーンには「(ユダヤ教徒とキリスト教は)アッラーを差し置いて彼らの律法学者たちや祭司たち(9章31節)を主とする・・・」と言われているが、この句は、彼らがアッラーの代わりに律法学者や祭司を拝んでいた、という意味ではなく、アッラーの啓典よりも律法学者や祭司の言うことに従っていたとの意味である。  イスラームとは、人間の生死、運命を司る創造主と専一的な庇護-服従関係を取り結ぶことであるが、庇護-服従関係こそ、政治の要諦に他ならないからである。翻って、我々自身の政治意識を顧みると、政治とはなによりも「国家」に関わる営為である。我々の考える「国家」とは、すなわち西欧に成立した「領域国民国家」である。「領域国民国家」は、教会や封建領主、都市、村落共同体などの「中間団体」から政治権力を奪い、支配領域内の全ての国民に、排他的な合法的暴力の行使を独占することにより、その物理的暴力を背景に立法による命令と禁止を貫徹し、彼らの生殺与奪権を一手に握る唯一の主権団体=暴力装置として自らを表象する。  この「近代国家」は、国家主権の命令と禁止に背く者は暴力的に抹殺したが、なお公民的、私的領域は、国家主権の埒外に残され放置されていた。このように「近代国家」の権力が「消極的」なものであったのに対し、「現代国家」はフーコーが「生-権力」と呼ぶように、学校、軍、病院、監獄など強制的調教機関によって人間の内心に至る生のあらゆる領域を「積極的」に全面的な管理下に置こうとする。  つまり、現代とは、生と死を管理する権力として、「国家」が社会の隅々にまで浸透した時代、「政治」が人間生活の全ての領域を覆い尽くした時代なのである。 そしてイスラームが、人間の生死、運命を司る創造主と専一的な庇護-服従関係、つまり「政治」であるなら、イスラームが否定するイスラームの対極の状態「ジャーヒリーヤ(無明)」もまた「政治」である。 「ジャーヒリーヤ(無明)」とは、創造主アッラーならぬあらゆる被造物の人間に対する支配-隷属関係であった。イスラームが創造主との専一的な庇護-服従関係による「政治」であるなら、排他的な合法的暴力の行使を背景に、立法による命令と禁止を貫徹し、人間の生殺与奪権を一手に握り、学校、軍、病院、監獄など強制的調教機関によって人間の内心に至る生のあらゆる領域を全面的な管理下に置こうとして社会の隅々になで浸透した現代国家による「政治」こそ、イスラームの対極にある「ジャーヒリーヤ(無明)」に他ならない。  「世界は今や全て、生の構成、組成の元となる基本的な所で『ジャーヒリーヤ』のうちに生きているのである。・・・この『ジャーヒリーヤ』は、地上に於けるアッラーの『神性』の本質、即ち『統治権(ハーキミーヤ)』に於ける権威に対する反逆の上に成り立っているのである。なぜならそれ[ジャーヒリーヤ]は『統治権』を人に帰すからである。」と述べ、ジャーヒリーヤ(無明)」の概念をキーワードに現代世界を分析し、現代のイスラーム運動に大きな影響を与えたのが、エジプトのムスリム同胞団のイデオローグであり政府転覆を企てたとしてナセルによって処刑されたサイイド・クトゥブ(1966年没)である。 イスラームは「政治」である、との命題は、人類全てが「領域国民国家」の「生-権力」の政治に絡め取られた我々の住むまさにこの現代世界において成り立つ命題なのである。  「領域国民国家」が地球を覆い尽くし、「政治」が肥大した「ジャーヒリーヤ(無明)」の現代にあっては、「ジャーヒリーヤ(無明)」の対極のイスラームもまた「政治」として表象されなければならない。しかし、伝統的なイスラーム学の用語法においては、「政治(スィヤーサ)」の語が、「イスラームとは政治である」といった使われ方をすることはなかった。  アラビア語で「政治」を意味するスィヤーサの語は語根s-w-sの動名詞であるが、名詞形でも動詞形でも、クルアーンでは用いられず、預言者ムハンマドの言行録の中でも、人間、動物、物事の「操縦」の一般的な意味で用いられており、それが「政治」を意味するイスラーム学の専門用語となるのは、ギリシャ政治学、特にアリストテレスの政治学における「ポリティケー(πολιτική 政治)」の翻訳語としてである。  イスラーム政治学(国法学)の専門書はスンナ派四大法学派ハナフィー法学派の名祖アブー・ハニーファ(767年没)の高弟アブー・ユースフ(798年没)著『地租の書(Kitāb al-Kharāj)』が嚆矢とされるが、最重要文献であるアル=マーワルディー(1058年没)著『統治の諸規則(al-Aḥkām al-Sulṭānīyah)』及びイブン・タイミーヤ(1328年没)著『シャリーアによる統治(al-Siyāsah al-Shar‘īyah)』は既に日本語にも訳されている。これらの政治学の専門書の研究成果は、全ての法学派の「一般法学(フィクフ)」の古典の中に組み込まれていったが、こうした古典の中でも各学派の法学提要は全てのイスラーム学徒が神学校で暗唱する必修教科のテキストとなったので、イスラーム政治学の基礎概念は、「中世」以来イスラーム世界全域でウラマーゥ(イスラーム学者)、ムスリム知識人の共有する基礎教養となった。  既に8世紀(イスラーム暦2世紀)には、政治学、あるいは国法学が法学の下位部門として独立の学問領域として認識されていたということは、「政治」がイスラーム、あるいはイスラーム文明の部分システムとして既に分化していたことを意味する。少なくとも9世紀(イスラーム暦2世紀)以降のイスラームを「祭政一致」、「政教一致」などと呼ぶことは出来ない。「政治」が肥大化した現代において、まさに「政治」こそがイスラームであるのに対し、前近代のイスラームにおいては、「政治」はイスラームの部分システムでしかなく、「イスラーム」と等しくはなく、キリスト教ヨーロッパ文明が「宗教」と呼ぶようなものは、政治とは明確に分化していた。  「イスラーム」とは、人間の生死、運命を司る創造主と専一的な庇護-服従関係を取り結ぶことであるが、絶対的なカリスマであったアッラーの使徒ムハンマドの存命中は、使徒ムハンマドの命に服することによってアッラーとの庇護-服従関係に入ることが出来る、との彼の代理権(ウィラーヤ)は疑いを容れない前提であった。しかし、使徒ムハンマドの逝去後には、いかにすれば、アッラーと庇護-服従関係を取り結ぶことができるのかをめぐって、使徒ムハンマドの代理権(ウィラーヤ)の問題が、イスラーム信仰共同体の存立をかけた最大の問題として浮上することになる。  イスラームの信仰告白は、「アッラーの他に神なし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」の二句に凝縮される。「アッラーの他に神なし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。」とは、アッラーのみが服従すべき主であり、アッラーのメッセージはその使徒ムハンマドによって伝えられることを意味する。イスラームの教えは、究極的には、アッラーの使徒ムハンマドを通じてアッラーのみに服従、帰依すること、それに尽きる。この意味において、アッラーに従うことは、使徒ムハンマドに従うことと外延を等しくし、アッラーへの信仰とは、使徒ムハンマドその人、彼の人格それ自体に絶対的な信を置くことでもあった。つまり、教えの具体的な内容より以前に、信じ従うべき権威の所在を明らかにすることこそが、イスラームの最重要問題なのである。そしてクルアーンは、「信ずる人々よ、アッラーに服従し、またその使徒とおまえたちの中で権威ある者に従え。・・・」(4章59節)と述べ、アッラーと使徒の次に、服従すべき権威として「権威ある者」を挙げている。 絶対的なカリスマであったアッラーの使徒ムハンマドの逝去後直ぐに、「権威ある者」とは誰かをめぐって、イスラーム共同体は、後にスンナ派となる「法の支配」の原則を掲げ「政教分離」を認める多数派と、後にシーア派となる「人の支配」と「政教一致」の原則を固守する少数派の二大党派に分裂する。 アッラーのメッセージを伝えうる者は使徒ムハンマドの存命中は、彼だけであり、アッラーに従うとはその使徒ムハンマドに従うことに他ならならず、イスラームとは彼の教えに他ならなかった。しかし使徒の逝去後は事情が異なる。イスラームの教えを護るために、アッラーは使徒の口を介して特別に無謬な後継者を任命された、との主張が現れる。使徒ムハンマドの従兄弟で娘婿でもあったアリーを使徒の後継者(khalīfah,カリフ)にして無謬のイマーム(導師)と仰ぐシーア派である。 ムハンマドは超越神アッラーの啓示を授かり人々に伝える使命を授かった使徒として、絶対的なカリスマとしてムスリム信徒団に君臨した。預言者ムハンマドの権威は、一般信徒にはアクセスの不可能なアッラーの啓示の神意の超越的な権威に基づくという意味において絶対的であった。また啓示の神意が一般の信徒が理性によって知ることができない、という意味において、「非合理的」、「神秘的」であり、従って、預言者ムハンマドの権威は、言葉の正しい意味において「宗教的」と言えるものであった。 シーア派は、預言者ムハンマドの従兄弟で養子で娘婿でもあった「ムハンマドの家門の人(アフル・アル=バイト)」のアリーが、使徒と同じくアッラーから直接の無謬の存在「イマーム(導師)」として、使徒ムハンマドの後継者に選ばれたと考える。確かにシーア派の「イマーム」は預言者ムハンマドと違って新しいシャリーア(聖法)を授かることもなく、また預言者ムハンマドが信徒に課したシャリーアを破棄、改訂することもできず、その権限はムハンマドのシャリーアの解釈権にとどまる。しかし、信徒の側から見ると、アッラーとのアクセスを独占しており、その言葉が疑いを挟む余地無く無条件の服従が要求されるという点において、イマームの権威は「非合理的」、「神秘的」、そして「宗教的」であり、使徒の絶対的な権威に等しいと言うことが出来る。このシーア派の考え方は、イスラームとはアッラーのメッセージを伝える無謬の預言者その人に従うことである、との預言者の存命中の「人格的イスラーム」理解の延長上にあるものとも考えられる。 他方、スンナ派は、預言者ムハンマドの逝去後には、アッラーから直接導かれ、アッラーとのアクセスを独占する無謬の彼の後継者は任命されなかった、と考える。スンナ派が使徒の初代の後継者とみなすアブー・バクルのカリフ就任演説における以下の言葉はスンナ派のカリフ観を端的に示している。「私がアッラーとその使徒に従う限り私に従いなさい。もし私がアッラーとその使徒に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない。」 この言葉は、スンナ派の考える使徒の後継者「カリフ」が、使徒の存命中の可謬の代官たちと同質であったことを明確に示している。アッラーから直接的、独占的に導かれているわけではないカリフは過ちを犯しアッラーとその使徒に背くことがありえ、その場合には他のムスリムたちはカリフに従う義務はない。そしてカリフはアッラーとのアクセス、シャリーアの解釈権を独占していないため、一般のムスリムであっても、カリフがアッラーとその使徒に従っているか背いているかをシャリーアに照らして判断することが可能なのである。 こうして我々は、預言者ムハンマドの後継問題の中に後のスンナ派の「法の支配」、シーア派の「人の支配」の統治理念の萌芽を看て取ることが出来る。しかしこの原始イスラームにおいてすでに萌芽的に存在したスンナ派の「法の支配」、「シーア派」の「人の支配」の統治理念は、実際にはイスラーム法学が成立し、イスラーム法体系が完成する8世紀(イスラーム暦2世紀)頃から13世紀(イスラーム暦7世紀)頃にかけて徐々に理論的に結晶化していったのである。使徒の逝去後、アッラーへの服従はクルアーンへの服従、使徒ムハンマドへの服従は、使徒のハディースへの服従に、つまり、個別の状況に応じて生きた使徒の命令に服することから、クルアーンとハディースの個々の言葉の意図を忖度して自らの生きる指針とすることに変った。 しかし実は整理されていないクルアーンとハディースを「いきなり」読んでも、そこから神意を汲み取ることは難しい。有名な酒の禁止にしてもクルアーンだけでも、「彼らは酒と掛け矢についておまえに問う。言え、『そこには大きな罪と人々への益があるが、それらの罪は益よりも大きい。』…」(第2章219節)、「信仰する者たちよ、おまえたちが酔っている時にはなにを言っているか分かるようになるまで礼拝に近づいてはならない。」(第4章43節)、「信仰する者たちよ、酒と賭け矢と立柱と占い矢は忌まわしい悪魔の行いにほかならない。それゆえ、これを避けよ。きっとおまえたちは成功するであろう。(第5章90節)の3つの異なる節があり、神意が奈辺にあるのかは俄には決し難い。そこでクルアーンとハディースの「全体」を「一貫した」行為規範の「体系」として「理解」しようとの試みが始まった。それがイスラーム法学「フィクフ(字義は「理解」)」である。  アッラーの使徒を介したアッラーへの絶対服従を意味するイスラームの内実は、預言者ムハンマドの在世中は彼自身の人格に対する帰依、服従であったが、その逝去後は、クルアーンとハディースのテキストの文言に秘められた神意を忖度し生きる指針としてそれに従うことに変化した。こうしてイスラームは、預言者への「人格的」帰依から、「非人格的」なテキストへの聴従に変る。そして更にイスラーム法体系の成立、発展に伴い、イスラーム法に従うことことこそがイスラームであるとみなされるようになる。  それ故、既に引用したアブー・バクルのカリフ就任演説における「私がアッラーとその使徒に従う限り私に従いなさい。もし私がアッラーとその使徒に背いたなら、あなたがたには私に従う義務はない。」との言葉は、スンナ派におけるイスラーム法のイスラーム共同体の長カリフに対する優位、即ち、「法の支配」の原則の宣言と遡及的にみなすことが出来ることになる。 スンナ派の「法の支配」の原則は他の観点からも論じることができる。イスラーム法はローマ法と並んで典型的な法曹法、学者法、と言われる。つまり法曹法、学者法とは、法の形成において、法学者による学問的解釈が最も重要な役割を果たすような法システムである。 ところがイスラーム法とローマ法とを比べると、同じく法曹法、学者法と呼ばれながらも、両者には決定的な違いが存在する。それはローマ法における皇帝権の法に対する優位と、イスラーム法における「法の支配」の理念である。 帝政期のローマ法において、法を最終的に法たらしめたのは皇帝の裁可であり、「元首は法律にしばられない(Princeps legibus solutus est)」との法諺は端的に皇帝権の法に対する優位を示している。  一方、イスラームにおいては、イスラーム法学、イスラーム法体系はカリフから独立に形成され、イスラーム法の権威がカリフに従属する事態は生じなかった。 既述の通り、スンナ派のイスラーム解釈において、使徒ムハンマドの後継者は、無謬のカリスマではなく、当初から理念的にも信徒に対して絶対の「宗教的」権威を有することはなかった。  使徒ムハンマドは後継者を任命せず、後継者の選挙をムスリム共同体(ウンマ)に委ねて逝ったとスンナ派は考える。使徒の後継者カリフが、アッラーとその使徒の教えに則って共同体(ウンマ)を治めるべき、と考えられている以上、イスラームの広い学識と深い理解と正しい実践がカリフの条件とされることはむしろ当然とも言える。にもかかわらず、歴史上実際に起こったのは、自律的なイスラーム法学者集団の形成と、カリフの権威から独立したイスラーム法体系の成立、「法の支配」の理念の確立であった。この経緯は、スンナ派イスラーム学によって以下のように遡及的に再構成される。 イスラーム法学者のカリフからの自立、イスラーム法の政治からの自律は、イスラーム法学者のカリフのイスラーム法への干渉に対する断固たる拒絶によって成し遂げられた。アッバース朝初期のカリフたちが執拗にマーリクの法学を唯一の「官製」法学として法の統一を図ろうとしたのを彼が峻拒し、法学者の自由と法学の自律を護った逸話がこの間の事情を雄弁に物語っている。 イスラーム法学者がカリフの政治権力から独立を保てた理由の一つとして、イスラーム法の実効性がそもそもカリフの政治権力を背景としていないことが挙げられる必要がある。イスラーム法は人間の行為を、(1)義務行為、(2)推奨行為、(3)合法行為、(4)忌避行為、(5)禁止行為に分類する。(1)義務行為は、行わないことが来世での懲罰に値する行為、(2)推奨行為は、行わなくとも来世での罰はないが行うことで来世の報償に値する行為、(3)行っても行わなくとも来世で罰も報償もない行為、(4)忌避行為は行っても来世で罰はないが行わなければ来世で報償に値する行為、(5)禁止行為は、行えば来世で罰に値する行為、と定義される。イスラーム法も、近代国家の法律と同じく、違背に対する刑罰の執行を背景とする強制規範であるが、近代国家において、刑罰を執行する主体が合法的暴力を独占する「国家」である、刑罰が法の定める現世での罰則であるのに対して、イスラーム法においては、刑罰を執行するのは、創造主アッラーであり、刑罰は来世における業火などの懲罰なのである。 イスラーム法の実効性は、アッラーによる来世での懲罰の畏れであって、現世におけるカリフによる刑罰の執行への恐怖ではない。それゆえ、イスラーム法体系においては、カリフによる法定刑の執行、民事訴訟における強制執行は、ごく一部を占めるに過ぎず、全体としてのイスラーム法の実効性がカリフ権力による裁可、裏打ちを必要としないことが、イスラーム法学者のカリフからの独立を可能にした大きな要因の一つであった。  スンナ派の理解によると、使徒の後継者カリフは無謬ではない。それゆえその支配も絶対的ではなくアッラーとその使徒の教えに従う限りにおいてとの条件付きとなる。そしてカリフは使徒とは違ってアッラーへのアクセスを独占しないため、一般のムスリムでもカリフがアッラーとその使徒に従っているかを自ら判断して服従を保留することが出来る。  そしてアッラーとその使徒への服従の意味は、イスラーム法体系の成立によって、アッラーの御言葉クルアーンと使徒の言行録ハディースを法源とするイスラーム法への服従に読み替えられていった。更にスンナ派イスラーム法学は、スンナ派4大法学派の確立をもってイスラーム法学は完成したとし、イスラーム法体系を固定化した。具体的には、9世紀(イスラーム暦3世紀)から14世紀(イスラーム暦8世紀)頃に欠かれた古典法学書がイスラーム世界の各地の神学校(マドラサ)で共通に教えらることによって、イスラーム法は、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝の三カリフ鼎立、地方政権の離反によるカリフ権力の弱体化、名目化などの政情の歴史的転変にもかかわらず、地理的にも極めて多様で無数のエスニックグループを包摂するイスラーム世界全域にわたって行動の同一性、一貫性、安定性を実現することが可能になったのである。  またスンナ派の「法の支配」の理念はイスラーム法の論理構造を分析することによって更によく理解することができる。  既に述べたように、イスラーム法は、行為範疇を来世でのアッラーの懲罰と報償によって定義する。それ故、西欧近代法の枠組みでイスラーム法を見ると、その本質を見失うことになる。つまり、窃盗に対する断手刑のような法定刑(フドゥード)を、イスラーム法が窃盗に対して手首の切断の刑を科している、と考えることは、間違いとは言い切れないまでも、極めてミスリーディングであり、大きな誤解を招きやすい。  断手刑について述べたクルアーンの節は「男の盗人であれ、女の盗人であれ、双方ともその手を切り落とせ・・・」(5章38節)であり、一義的にはこの章句は、窃盗の禁止命令ではなく、窃盗に対する断手の命令である。それゆえ、ここでは、使徒ムハンマドの在世中は使徒に、彼の逝去後は、カリフ(あるいはその配下)が窃盗に対する断手が命じられているのであり、礼拝や浄財の命令と同じく、その断手の命令に背けばカリフが来世でアッラーからの懲罰を蒙るに値する。使徒ムハンマド自身、盗みを犯した名家の女性の手を切るにあたって、「たとえ我が娘ファーティマが盗んだとしても、私はその手を切り落とした」と述べており、断手刑はたとえそれが身内に対しての辛い仕打ちとなろうとも拒むことの許されない厳命なのである。勿論、窃盗自体もアッラーによって禁じられた行為であるが、イスラーム法上の罰は、先ず来世での懲罰なのであり、現世でのカリフによる断手刑はあくまでも二義的なものにすぎない。  イスラーム法において、カリフは法の上に立つことはなく法の下にあり、また来世におけるアッラーによる懲罰の上に成り立つイスラーム法体系の世界観中で、刑罰を執行するカリフ権力を背景とする法定刑は二次的なものに過ぎない。  スンナ派イスラームは「法の支配」の理念を確立しが、イスラームが「法の支配」の理念と同時に「法治主義」の政治慣行もまた実現したことを述べておく必要があろう。  ヨーロッパ諸語ではカノン法とは教会法を指すが、ギリシャ語κανώνがアラビア語化したqānūnは逆に、天啓の神法シャリーアと対置され、人定法の政令(執行命令)を意味する。 クルアーンの章句「信ずる人々よ、アッラーに服従し、またその使徒とおまえたちの中で権威ある者に従え。・・・」(4章59節)、初代カリフ・アブー・バクルの言葉「私がアッラーとその使徒に従う限り私に従いなさい」は、イスラーム法に背かない限り、カリフの命令が効力を有することを示している。イスラーム文明においては、カリフや王侯(スルタン)たちは、恣意的な場当たり的な命令によって支配するのではなく、政令の集成、法典を制定するようになった。これらの法令の束が「法令集(法令集)」であり、最も有名な法令制定者が「完成されたイスラーム国家」とも呼ばれるオスマン・カリフ国の「立法者(Qānūnī)」と呼ばれたスレイマン大帝(1566年没)である。 「法令(カーヌーン)」はシャリーア、イスラーム法とは全く別物であり、カリフがイスラーム法を施行するための行政細則、政令(執行命令)の扱いであり、あくまでもイスラーム法に違背しない範囲内で効力を認められたものに過ぎなかった。 制度的にも、シャリーア、イスラーム法が、マドラサ(神学校)で全てのイスラーム学徒に教えられたのと異なり、「法令」がマドラサのカリキュラムに組み込まれることはなかった。またシャリーアに基づく裁判がイスラーム法学者の裁判官(カーディー)によって行われたのに対して、行政裁判はカリフの管轄下の「マザーリム(行政不正審査)」と呼ばれる法廷で行われた。「マザーリム」法廷は、カリフの管轄であり、イスラーム法に基づく裁判所とは別であるが、イスラーム法の効力が及ばないわけではない。『統治の諸規則』が「マザーリム」に一章を割いていることからも分かる通り、カリフ管轄の行政裁判「マザーリム」もまたイスラーム法の下におかれていた。  イギリスにおいても、「法の支配」の原則が確立するのは、古からの習慣として誰もが常識的に知っており人の手によって作ったり変えたりすることができないコモン・ローの存在を拠り所とした、国王からの自律を求める法律家集団の闘争の結果であった。イスラームにおいては、可謬の為政者の手によって恣意的に改変できない天啓の「法」シャリーアの概念が確立し、カリフの「法」への「政治的」干渉を排し自律した学問領域を確保したイスラーム法学者たちがそのシャリーアを一貫して整合的な法体系に彫琢し、神学校を通じて一般のムスリム信徒たちに分かりやすく教え、人口に膾炙せしめることによって、「法の支配」の原則が確立したのである。  イスラームにおいては、「法の支配」の原則における「法」とは、預言者ムハンマドが授かったアラビア語の天啓の神法「シャリーア」であり、それは人々が学び、知り、従うべき正義の法であるが、「法治主義」における「法」は(東ローマ帝国)ギリシャ語からの借用語「カーヌーン」であり、為政者の政治の道具、行政細則の政令に過ぎず、言葉としても、制度的な使用においても、全く別物である。 神法「シャリーア」による「法の支配」と、政令(執行命令)「カーヌーン」に基づく「法治主義」を混同する余地の無いイスラーム文明と、「法の支配」における「法」と「法治主義」における「法」を区別する言葉を持たず、その違いを明確に意識できないヨーロッパ文明の間に横たわる巨大な懸隔が見過ごされてはならないのである。 使徒ムハンマドの在世時、イスラームとは彼その人に無条件に従うことであった。使徒の後継者イマームを、使徒と同じくアッラーへのアクセスを独占する無謬のカリスマとみなすシーア派のイマーム論は、この使徒への服従という「イスラーム」の「人格的」理解を受け継ぐものであったが、第12代イマーム・アル=マフディーが9世紀末にシーア派信徒の前から完全に姿を消してしまうと、シーア派においても信徒たちが生きたイマームに直接に生きる指針の指示を仰ぎ帰依、服従することは不可能となった。そこでイマームその人への人格的帰依は、イマームの言行録ハディースのテキストに対する聴従に取って代わる。11世紀(イスラーム暦5世紀)には、シーア派においても、スンナ派と同様にハディースのテキストの直接参照、聴従に代わって、法学者によって演繹された法体系への服従を説く立場が現れる。この立場を取る者たちは後にウスール(法原則)学派と呼ばれるようになる。 スンナ派法学と比較すると、法学の抽象的な法体系を構築しながらも、シーア派法学には、イスラームの「人格的」理解が形を変えて現れていることを明確に見て取ることが出来る。それはイマームの幽隠時には法学者がイマームの代理として信徒に対する権限を代行するとの理論である。法学者が代行しうるイマームの権限は時代と共に拡大され、遂にホメイニ-(1989年没)の「法学者の代理後見(Wilāyah al-Faqīh)」論に至って、先制攻撃ジハード宣戦の大権を除いてイマームが有する法的、政治的権能の全てを法学者が代行することになり、法学者ならぬシーア派一般信徒は、イマームの全権代理である法学者の判断、命令に絶対的に「盲従(タクリード)」することが義務となった。 スンナ派では政治権力を有するカリフは、イスラーム法の解釈権は有さず、イスラーム法の解釈は政治権力を有さないイスラーム法学者に委ねられており、イスラーム法学者が一般信徒に「盲従」を強制することはない。イスラーム法は、天啓の「法」たるシャリーアそれ自体の権威によりカリフ、法学者、一般信徒の全てによって従われる。これがスンナ派の「法の支配」の理念であった。 一方、シーア派では、従われるべき権威は、天啓の法シャリーアではなく、預言者の後継者である無謬のイマームその人であり、イマームの幽隠時には、イマームの代理人としてイマームの権限を代行するシャリーアの解釈権を有する法学者その人となる。これがシーア派の「人の支配」の理念なのである。  但し、シーア派の歴代イマームたちは、イスラーム共同体のあるべき指導者ではあっても、スンナ派も第4代正統カリフとして認める初代イマーム・アリーを除き、カリフとなることはなく、むしろウマイヤ朝、アッバース朝の厳重な警戒下に軟禁状態にあり、一切の政治権力を奪われていた。 それゆえ現実には政治権力を有さないシーア派の政治理論は永らく空論に過ぎず、実際のところは、本来イマームのものであるべきカリフの位を不当に奪った簒奪者の下で、幽隠のイマームの代理である法学者の指導の下にいかに「非政治的」に生きるべきか、を教えるに過ぎなかった。 ところが、「法学者の代理後見」論を掲げるホメイニ-の率いるイラン・イスラーム革命の成功により状況は一変した。シーア派、初代イマーム・アリー以来初めてイマームの代理人である法学者が代理後見を務める政治権力、イスラーム共和国を樹立し、現実に即した政治理論を構築する必要に迫られたのである。ホメイニ-はイマームの代理後見としての権力を有する法学者には、利害考量に基づき第二次法規(統治命令)を定める権限があり、この第二次法規はクルアーンとハディースに基づく第一時法規の効力を停止させることも可能であるとした。この法学者の利害考量をクルアーンとハディースより優先するホメイニ-の「法学者の代理後見」論は、スンナ派の「法の支配」の原則とシーア派の「人の支配」の原則の鮮やかな対照を示している。 スンナ派においては、カリフはアッラーの神意へのアクセスを独占せず、無謬でもなく、使徒の生前の代官が、アッラーと使徒の命令の範囲内、との条件付きで、使徒の「政治的」権限を代行したのと同じく、シャリーア、イスラーム法の範囲内と読み替えられた、アッラーと使徒の命令の範囲内との条件付きで、使徒の「政治的」権限を代行し、シャリーア、イスラーム法の権威は、その解釈者であるイスラーム法学者たちが、使徒の後継者として引き継ぐことになった。 シーア派が、使徒の逝去後、使徒と同じくアッラーとの直接のアクセスを有し正しく導かれた無謬の後継者(イマーム)をアッラーが任命され、その後継者が使徒の政治的権威も継承する、と考えるのに対し、スンナ派はそのような無謬の後継者は存在しないと考えるが、使徒の逝去後、アッラーとの直接のアクセス自体が完全に途絶えた、とは必ずしも見なさない。 シーア派の考えでは、使徒ムハンマドの権威は、その後継者イマームの一身に全てが継承されるが、スンナ派においては、使徒の権威は、政治的権威とシャリーア、イスラーム法の権威に分化し、前者がカリフに、後者がイスラーム法学者に継承されることは既に見た。しかし使徒ムハンマドは、政治的権威、法的権威の他に、アッラーからの直接的教示により来世や天界などの一般のムスリムが知り得ない不可視の事柄を知る「霊的」権威、西洋宗教学的意味における「宗教的権威」、と呼ぶべき「権威」を有していた。この使徒は「宗教的」権威は、スンナ派の理解では、スーフィーと呼ばれる「聖者」たちによって、継承された。 スンナ派の理解では、預言者の権威は、先ず「政治的」権威がカリフに、広義の「宗教的」権威がイスラーム学者(ウラマーゥ)によって継承されたが、イブン・ハルドゥーンの時代には、イスラーム学の専門分化が進み、法学的知識とスーフィー的神智を統合する人格はまれになっており、イスラーム学者が継承した預言者の広義の「宗教的」権威は、更にシャリーアの法学的権威と、霊的、あるいは狭義の「宗教的」権威に分化し、前者がイスラーム法学者、後者がスーフィーによって継承されることになるのである。  今日の世界の支配者たちのイデオロギーである「デモクラシー」は、「民衆「デモス: δῆμος)と「支配(クラティア: κράτος)の複合語「民衆支配(デモクラティア: δημοκρατία)、民主政」を意味する。政体を(1)一者が支配する王政(僭主政)、(2)少数者が支配する貴族政(寡頭政)、(3)多数が支配する民主政(衆愚制)に分類するのは、ギリシャ政治学の伝統であり、アリストテレスの『政治学』を通じて、ヨーロッパの政治思想の基礎となった。  ギリシャの政治学は、アラビア語への翻訳を通じて、イスラーム文明の一部となっており、アリストテレスの『政治学』もアラビア語に翻訳されているが(散逸し現存しない)、「デモクラティア(民主政)」は、イスラーム学の伝統に組み入れられることはなかった。  ギリシャ思想のイスラーム化は、ギリシャ語をそのままアラビア語に音写して、アラビア語化して定着する場合とアラビア語に訳されて用いられる場合がある。  前者の例としては、「フィロソフィア(φιλοσοφία:哲学)」がfalsafahと音訳され、「ソフィステイア(σοφιστεία:詭弁)」がsafsaṭahと音写されて、外来語として哲学用語となった例がある。後者の例としては、既述のように政治(ポリティケー)がsiyāsah(政治)、「人間は政治的動物である」の「政治的」がmadanī(都市的)と訳され、外来語起源であることが意識されることなく、用いられるようになっていく。  ところがギリシャ政治学の受容にもかかわらず、ディモクラティアは、音写されて外来語化してアラビア語となることもなく、アラビア語に訳されてイスラーム政治学の術語となることもなかった。ディモクラティアは現代アラビア語で外来語dīmuqrāṭīyahとして登場するまで、イスラーム学の中に現れることはなかったのである。  イスラーム学の伝統の中にデモクラシー(デモクラティア)は存在しなかった。西欧政治思想の呪縛を逃れられない者の目には、イスラームの政治は、西欧流の民主主義ではなく、一者の支配する独裁政治(despotism)、専制政治(tyranny)の一種である教権政治(theocracy)あるいは聖職者階級の支配する僧侶政治(ヒエロクラシー、hierocracy)に映ることになる。つまり、「人間による人間の支配」、「人の支配」としてしか政治を捉えることのできない、特殊西欧的な政治観によれば、政治体制とは「誰が支配者であるか」の問題でしかなく、民衆が支配者でない、あるいは国民が主権者でない政体とは、神の名の下に「教皇」か「僧侶」が平信徒を支配する教権政治か僧侶政治でしかありえないことになるからである。  ギリシャ政治思想以来、政治を「人間による人間の支配」、「人に支配」とみなしてきた西欧政治観は、特殊西欧的なものであり、実はそれは特殊西欧的な人間観に由来しているのである。  この特殊西欧的な人間観、政治観を、比較文明学的の立場から神学的に明らかにしたのが、日本の新約学者加藤隆である。加藤によると、ヨーロッパの政治思想は、「人の支配」なのであるが、これは直接には初期キリスト教会の人間観から派生する。加藤は「人による人の支配は、エルサレム初期共同体がセクト集団のような状態から変化してエルサレム教会と呼ばれるべきものとなって以来、キリスト教の最大の特徴となる。」、「この原則の特徴は、人間が二種類に分けられており、上の者が下の者を支配ないし管理しているという点である。」(加藤隆『一神教の誕生』講談社2002年、260-286頁)と述べ「人の支配」こそがキリスト教社会の本質的特徴であると喝破した上で、そのキリスト教的社会観を基礎に、「支配する聖職者-支配される俗人」の支配構造の世俗の領域が更に「支配する貴族-支配される平民・奴隷」に分化される「人の支配」の二重構造が、西洋キリスト教文明の社会構造であり、それが全世界規模に広まったのが現代世界だと分析している。実は現代西欧が喧伝するデモクラシーは「民衆支配(デモクラティア)」とは似て非なるものである。ミュヘルスの「寡頭制の鉄則」により、近代国家のような巨大な組織には、寡頭制以外の政体は有り得ない。現代西欧のデモクラシーとは、実は「間接民主制(indirect democracy)」の美名で粉飾した寡頭制に過ぎない。「間接民主制」などという姑息な言い換えをしてまで「民主」の名に固執するのは、少数者支配の寡頭制の実態を隠蔽し大衆に迎合するためであり、一種の情報操作に他ならない。  「人による人の支配」はキリスト教西洋文明の人間観の本質であり、それゆえ現代西洋の政治思想もまた、君主制、寡頭制、民主制のような「人の支配」の類型論とそのヴァリアント以外の政治体制を殆ど想像することができないのである。「法の支配」の理念は近代になって漸く17世紀にイギリスに現れたが、この「法の支配」の理念も、直ぐに中国流の「法治主義」、ドイツ流の「法治国家(Rechtshtaat)」、「法の支配」ならぬ「法律による支配」に変形してしまっった。 「人の支配」以外の政治体制を想像することができず、「法」と「法律」を明確に区別することもできない西洋にとっては、「人権」の理念は「人の支配」の弊害を緩和し欠陥を補う解毒剤である。それゆえ「人の支配」、寡頭制の偽名でしかない西洋流の「民主主義」とセットになった「人権」が、西洋とその植民地においては「人による人の支配」の不正、恣意性の掣肘に一定の意味を有するとしても、そもそも「人の支配」とは異なる人間観・政治観を有する文明圏に西洋流の「(議会制/間接)民主主義(=寡頭制)」と「人権」概念を持ち込み、人権侵害を喧しく騒ぎ立てることは、無知な自文化中心主義に基づく無用の長物の押し付けでしかなく、不適切との誹りを免れなかろう。  スンナ派イスラームの政治思想の根本理念が「法の支配」であるのに対して、西洋の政治思想は「人の支配」を前提とする。西洋政治思想の「人の支配」の枠組みでイスラームを見るとイスラームが「神権政治」や「僧侶政治」に映るのと同様に、イスラームの「法の支配」の理念に照らして西欧の政治思想を見ると、それは「人の支配」に映る。西洋流のデモクラシー、つまり「議会制/間接民主主義」とは、議会を占拠した一握りの有力者たちが国民の名を騙って自分たちに都合良く定めた政令(執行命令)(人定法:qānūn)を道具に人々を支配することに他ならない。 イスラームの「法の支配」の理念は、天啓の法「シャリーア」への服従こそが、アッラーへの服従、イスラームに他ならず、天啓の法「シャリーア」を蔑し、人間の定めた人定法「カーヌーン」に従って統治を行う(法治主義)は、ジャーヒリーヤ(無明)に他ならないことになる。 現代のイスラーム政治思想を理解するためには、人定法(西欧実定法)に裁定を求めること、つまり西洋法の継受が、重大な不信仰にあたる、との現代イスラーム政治学の基本命題を理解しなくはならない。但し、この命題は西欧に植民地にされ西欧法の継受を押し付けられた植民地政府の継承国家である現代のイスラーム諸国の支配の正当性を真っ向から否定するものであるため、イスラーム世界の中でも公然と語ることはタブーとなっており、ましてやイスラーム世界の外では殆ど知られていない。 西洋の人定法の継受が重大な不信仰であることを最も明晰に力強く述べたのが、元サウディアラビア王国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・アール・アル=シャイフ(1969年没)の『人定法に裁定を求めること』である。 ムハンマド・アール・アル=シャイフは、フランス法、英米法などの法律にシャリーアの規定の一部を混ぜた寄せ集めの法律に全体主義的強制的組織的形態で、統治システムを「それこそシャリーアに対する頑迷な反対、その諸法規定への軽視、アッラーとその使徒に対する敵対において、最も重大、最も包括的、最も明瞭な不信仰である。」、「これ以上の不信仰があろうか。ムハンマドがアッラーの使徒であるとの信仰告白に対するこれ以上の敵対があろうか」と断罪する。 ムハンマド・アール・アル=シャイフは、「他の何物でもなくシャリーアだけに裁定を求めることは、他の何物でもなくアッラーのみを崇拝することの『兄弟』である」と述べ、人定法と絶縁することなしには、タウヒード(唯一神崇拝)を完遂することができないことを明らかにした。  サウディアラビアは18世紀のスンナ派超正統主義ワッハーブ派の教義を建国原理とし、そのムフティー(教義審問官)であったムハンマド・ブン・アール・シャイフは、ワッハーブ派開祖ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブ(1792年没)の直系の子孫であり、現代を代表するワッハーブ派の学者であった。  ワッハーブ派は厳格な「タウヒード(唯一神崇拝)」の信奉者を自認し、ワッハーブ派の教義に反する他宗派を全て不信仰者とみなす超正統主義の「宗教」運動であった。ワッハーブ派はアッラーの超越性を危うくすると思われるあらゆる思想、慣行を弾劾した。(第三次)サウディアラビア建国当初、ワッハーブ派はアッラーに直接赦しを請う代わりに亡くなったイマームやスーフィー聖者にアッラーへの執成しを祈願する、あるいは聖廟にイマームや聖者の祝福の力が宿り、そこで祈ることに特別な功徳がある、といった、アッラー以外のものの崇拝、多神崇拝に通じる狭義の宗教儀礼を敵視し、マッカ、マディーナの両聖地やシーア派の聖地ナジャフやカルバラでイマーム廟、聖者廟を破壊するなど、シーア派とスーフィズムの主要的として軍事力による破壊活動を繰り広げた。  他宗派に対して背教宣告を下すワッハーブ派は「宗教的」には「過激派」であったが、「政治的」にはスンナ派の覇者のカリフ論の伝統に忠実で、サウード王家の支配を認め、政治は王家に任せ干渉せず、政治から距離を取る「穏健派」であった。  (第一次)サウディアラビア建国のそもそもの発端が、ワッハーブ派の教えをサウード家が武力を広める代わりにサウード王家の支配を求めるとの、ワッハーブ派の開祖ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブとムハンマド・ブン・サウード(1765年没)の間に結ばれた政教盟約にあったこともあり、ワッハーブ派は伝統的に「政教分離」志向であり、極めて「非政治的」であった。 また西欧による直接の植民地支配を経験したことがなかったワッハーブ派は当初、西欧近代の国家、社会、経済のシステム、即ち伝統的なイスラーム文明と全く異質な「政治」に対する知識も関心も有さなかった。 ところが、第二次世界大戦後、サウディアラビア国内にも西欧の文物が急速に流入し、ワッハーブ派宗教界が、その対応を迫られたことにより、『人定法に裁定を求めること』が著わされることになったのである。 既に述べた通り、ワッハーブ派は厳格な「タウヒード(唯一神崇拝)」の信奉者を自認し、タウヒード(唯一神崇拝)とシルク(多神崇拝)の区別を明確にし、イスラームの純化を自らの使命と心得る。そして伝統的に「非政治的」であり、シーア派とスーフィズムの聖廟参詣の「宗教儀礼」を主要敵としてきたワッハーブ派の最高権威が、法制の西欧化、西欧法の導入こそが「シャリーアに対する頑迷な反対、その諸法規定への軽視、アッラーとその使徒に対する敵対において、最も重大、最も包括的、最も明瞭な不信仰」であるとの判断を下したことは、イスラームの現代における「宗教から政治へ」の位相転換を如実に示しているのである。  現代世界において、人間の生は誕生から死まで、全て「国家」によって管理下されており、教育、医療から上下水道、電気などのライフラインにいたるまで悉く「国家」の支配下にある。この「国家」が肥大化し、生の全ての領域を「政治化」し、「領域国民国家」が地球全土を覆い尽くした時代にあっては、「政治」から遠ざかり、「非政治的」であることはできない。全てが「政治化」した時代に合って、「非政治的である」、とは「国家」の支配を全面的に受け入れ、何の疑問も抱かくことなく「国家」の命令、統制に唯々諾々と従うというそれ自体極めて「党派的」な「政治的」立場に立つことに過ぎない。  「国家」が弱く、「宗教」が自律性を保っていた前近代にあって、「非政治的」であったワッハーブ派の「政治化」は、「イスラームの政治化』である前に、「世界の政治化」の一つの顕れであり、全てが「政治化」した世界にあってはイスラームもまた政治化せざるをえないイスラーム世界の現状を示すものである、と解釈しなくてはならない 「リヴァイアサン」とはヘブライ語聖書「ヨブ記」に登場する海の怪獣のことであるが、ホッブスはヨーロッパに誕生したばかりの近代国家を、「リヴァイアサン」、「可死の神(mortal god)」と呼んだ。 近代政治学の祖とも言われるホッブスによるこの命名は「領域国民国家」の性格を的確に言い当てている。 なぜなら近代国家は国土の領内において、主権者たる国民を代表するとの擬制の下に、その国民に対して、神の如くに、この世の何ものにも掣肘されない権力、主権を行使するからである。 絶対王政の成立以前の中世ヨーロッパ封建制において、国王と諸侯の関係はそれぞれが個人的な契約関係であり、国土も国王の領土であり相続により移転し、永続的な国土、国民の概念は生まれていなかった。また中世ヨーロッパにおいて、教会は「キリストの身体」とみなされその首長たる教皇は王の聖別する権能を有し、全信徒に対して精神の領域における絶大な権力を振るったのみならず、世俗の領域でも王侯からの寄進による広大な領地を有し、世俗の権力構造も、国王、諸侯、貴族、都市、ギルド、教会の契約関係が複雑に入り組んでおり、中央集権的な国家は存在しなかった。 ヨーロッパ中世においては、国家権力は徴税、徴兵を除いて、「民衆」の生活に干渉することは殆どなく、民衆「社会」は「国家」に対して広範な自律性を有していた。ところが絶対王政は、官僚と常備軍による中央集権化により、諸侯や貴族の力を削ぎ、暴力による統制を国家に一元化した。更に、「市民」革命後の近代「領域国民国家」は、「国民軍」の創設により、「国家」のために国民の生命を犠牲に捧げることを正当化、強要し、良質な労働力である同質な「国民」を作り出すために、学校教育を手中に収めることにより、それまでは社会と教会の領域であった思想の自由と精神の自立を奪い、領域内の全ての住民を強制的に洗脳し国家に仕える「国民」に作り変えていった。  それはそれは後に「国民国家」の観念に結晶化し、現代に至って世界を覆い尽くすことになる現代「国家」の本質を正確に言い当てていた。  出生、死亡、婚姻、離婚、居住、職業、年収、今や「国民」の生活の全ては、この架空の「国家」の管理下にあり、そしてその「国民」自体が学校教育によって「国家」の手によって不断に創出されているのである。そして「国家」に馴致された「国民」はこうした国家管理を当然のこととして受け入れており、「国家」の「実在」は疑われることなく自明視される。  存在する社会集団と個人の多様性を暴力的に抹消し無理やりに均質化することによって成立した「国民国家」は、「国民主権」、「一般意志」等のフィクションの下に、「国民」の集合体、総意の化身として、人格化、神格化される。社会心理学者エーリッヒ・フロムは言う。 現代をも含めて人間の歴史の中で今日にいたるまでいかなる偶像が崇拝されてきたのかを逐一はっきりとつきとめなければならない。かつては偶像は動物、木、星、男または女のかたちをしたものなどであった。それは、バアルとか、アンタロテとか呼ばれ、またその他幾千という名で知られてきた。今日、それらは、名誉、国旗、国家、母、家族、名声、生産、消費といったいろいろな名で呼ばれる。けれども正式の礼拝は神であるというたてまえからいって、今日の偶像が人間の崇拝のほんとうの対象となっていることはなかなか見破られない。・・・中略・・・かつてアズデック族が神々に捧げた人柱と、戦争のさいにナショナリズムや主権国家という偶像に捧げられる現代の人柱の間には、われわれが考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。(E.フロム『ユダヤ教の人間観』河出書房新社、63頁)  また世俗的ナショナリズムが「信仰の表現」であり、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種であることは、アメリカの宗教社会学者ユルゲンスマイヤーも指摘している。(M.K.ユルゲンスマイヤー『ナショナリズムの世俗性と宗教性』、玉川大学出版部、28-29頁)。  「ネーション(国民・国家)」は自らの神となることにより、人々が自らと他者の命を生け贄に捧げる対象となる。「過去2世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。」(土屋健治『インドネシア思想の系譜』珪草書房、44頁) ユルゲンスマイヤーが引用するトックヴィルの予言「十九世紀には、世俗的ナショナリズムという「奇妙な宗教」が、「イスラームのように、その使徒たち、戦士たち。そして殉教者たちをともなって全世界を席巻するだろう」」(ユルゲンスマイヤー43頁)は恐らく当人が考えていた以上に世俗的ナショナリズムの「宗教性」とその祭神「国民国家」の真相、そしてイスラームと世俗的ナショナリズムの共存不可能性を言い当てていたのである。 イスラームがと世俗的ナショナリズムは同一の現象のネガとポジのように正反対であると同時にそっくりである。イスラームを「宗教」と呼ぶなら、世俗的ナショナリズムも「宗教」であり、世俗的ナショナリズムが「政治」であるなら、イスラームもまた「政治」である。 我々が現在「政治」と思い込んでいる世俗的ナショナリズムは実は、現代を生きる我々の生の全てを支配する「領域国民国家」リヴァイアサンを祭神とする「宗教」なのであり、イスラームがアッラーに全面的に服従し絶対帰依する「宗教」であろうとする限り、「領域国民国家」リヴァイアサンというターグート(邪神)の支配ジャーヒリーヤ(無明)を打破するために「政治化」せざるを得ないのである。  「全体社会を包摂する宗教」という宗教社会学的な意味において、イスラームは典型的なchurch(教会)である。しかしchurchの語の元来の意味のキリスト教の教会Church(εκκλησία)とイスラームの信徒集団ウンマは本質的に異なっている。  キリスト教会は、教祖イエスの存命時において、ローマ帝国の辺境の地パレスチナのユダヤ教の一小分派のカルトでしかなかった。キリスト教会は当時の最も発達した官僚国家ローマ帝国の下で313年に宗教の自由を認めるミラノ勅令が交付されるまで、非合法のカルトであったのであり、宗教社会学的な意味でローマの全体社会を包摂する「教会」となるのは380年にテオドシウス帝によってローマの国教とされてからで、「開教」以来300年以上経った後であった。  一方、使徒ムハンマドがイスラームの宣教を始めた時点で、アラビア半島は部族社会であり「国家」は存在しなかった。国家が存在しないアラブの部族社会において、使徒ムハンマドはヤスリブ(後のマディーナ)の街に「教団国家」を建設し、最晩年には故郷マッカを制服凱旋し、アラビア半島全域を「宗教/政治的」に支配下に収めていた。イスラームは使徒ムハンマドの存命中にアラブの全体社会を包摂する「教会」となっていたのである。  ローマ帝国の中の異分子ユダヤ教徒の分派の非合法のカルトとしてのキリスト教と、部族社会の中に教団国家を樹立しアラブ社会全体を包摂する教会となったイスラーム、という二つの宗教の成立の違いは、両宗教の性格に大きな違いをもたらすことになる。  ムスリム信徒団「ウンマ」は、使徒ムハンマドの存命中のイスラームの成立当初から完結した全体社会であった。ウンマは当初より、その中に殺人、強盗、窃盗、姦通、飲酒などの罪を犯すムスリム信徒を内に抱えると同時に、社会の秩序維持に責任を負い犯罪者たちを罰し、彼らを代表して外敵と外交や戦争を行う為政者を信徒団の首長に戴く「教団国家」であった。  一方、キリスト教会はローマ帝国内の非合法なカルトであったばかりではなく、本来のローマ社会の構成分子ではない異分子のユダヤ教徒の分派であり、イエスとその直弟子たちはローマの市民ですらなかった。従って、キリスト教会に対してローマ帝国は、宗教的に異教徒の集団であると同時に、世俗的にも、教会の信徒団はローマ帝国の政治機構にとって完全に外部にある集団であった。 つまりキリスト教の政教分離の典拠として引かれることの多い聖書のイエスの言葉「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」(マタイ22章21節)に言われる「カエサル」は教会のメンバーではなく異教徒の皇帝であり、異教のローマ帝国の税は異教徒の皇帝に、ユダヤ教の税は神殿に収めよ、との意味であり、政治と宗教の領域を分けよ、との教えではない。つまりメンバーを異にする別の組織の間の関係について述べたものなのである。 日本語で「政教分離」と呼び習わされている言葉は英語ではむしろ、separation of religion and politics(政教分離)よりも church separation of state and church(国家と教会の分離)の方が一般的である。なぜならばキリスト教の歴史においては、当初から、ローマ帝国の国家機構と、ローマ帝国に倣った位階制度を有するキリスト教会という、現世の二つの「政治組織」が対立していたからである。ローマ皇帝がキリスト教に改宗してからも事情は同じで、この構図がそのまま引き継がれ、ローマ教皇を元首とするローマ教会と皇帝を元首とするローマ帝国という二つの政治組織、現世の権力が対立を続け、ローマ帝国滅亡後も、この国家と教会の対立が形を変えつつ続いている。その名残として、ローマ教会は、現在に至るまで教会であると同時に国家「バチカン市国」を有し、ローマ教皇は、バチカン市国の元首として軍備を有し、世界各国に大使館を置き、盛んな外交活動を繰り広げているのである。 一方、イスラームのウンマには、使徒ムハンマドの時代以来現在に至るまで、このような政治「組織」であったことはない。我々はこれまで、使徒の政治的、法的、霊的権威、権力の継承について語ってきたが、それはウンマが政治的「組織」、法的「組織」、霊的「組織」であったことを意味しない。 イスラームには「組織」はなく、ウンマには、教皇も公会議も教区も聖職者も存在しない。そもそもイスラームには、「誰がムスリムであるか」を認定する機関もなければ、資格者もいない。「 スンナ派イスラームでは使徒ムハンマドの権力/権威は、政治的権力がカリフに、法(法解釈)的権威がイスラーム法学者に、霊的権威がスーフィーに継承された、と述べたが、法的権威も霊的権威が制度化されることも、イスラーム法学者やスーフィーが組織化されることもなかった。イスラーム法学者にも、スーフィーにも叙任制度はなく、師弟の私的な学統継承のネットワークが存在するだけで、誰が法学者であるのか、誰がスーフィーであるのかを一元的に決定する権威が制度化されなかったのみならず、法学者、スーフィーを登録・管理する機関さえも存在しなかった。誰が法学者を認定するのは法学者だけであり、誰がスーフィーかを認定するのもスーフィーだけであり、形式的にさえ、カリフが関わることはなかった。法的領域、霊的領域は、政治的制度化、組織化を免れただけでなく、政治権力(カリフ)から干渉されることなく完全に自律していた。  ウンマはイスラームの信仰を共にする同信集団であり、既述の通り、イスラームは、イスラームの入信を認定・管理・統制する組織を有さないため、それ自体が政治組織ではない。しかし、法的、霊的権威が制度化、組織化されなかったのと違い、政治権力は制度化された。それがカリフ制である。しかし、カリフ制も、イスラーム法学の「連帯義務」の概念によって制度化されたものであり、カリフ擁立はウンマ全体に義務付けられるが、それは使徒ムハンマドのウンマの元首としてのジハードや法定刑執行、浄財の配分などの職務を履行する責任者としてであり、カリフが使徒ムハンマドの権限の全てを継承し、カリフ自らが処理しきれないものを他者に委任する構成を取る。ウンマの政治権力は、委任可能なカリフの権限と義務として機能的に柔軟に制度化されたのであり、ローマ帝国やキリスト教会の官僚制のヒエラルキーのように固定化され組織化されることはなかった。  キリスト教の教会はローマ帝国内の非合法カルトとして出発したため、全体社会を包摂する「教会」ではなく犯罪者の処罰や戦争を行う軍事力は欠いていたものの、ローマ帝国と同型の厳格な成員資格とヒエラルキーを有する外延が明確な政治「組織」として発展し、キリスト教がローマの国教となった後も、教会と国家という二つの政治組織の対立は解消されなかった。  一方、イスラームのウンマは、キリスト教会の教皇、公会議、聖職者のような外延の明確なヒエラルキー組織を一切有しない、イスラーム法が定める権利義務によって成員資格が機能的に定義される外延が定まらない不定形の集合体として発達し、法学者の法的権威、スーフィーの霊的権威は、カリフの政治権力による公認を必要とせず、高度の自律性を保っていたのである。  「政教分離」原則は近代国家の常識であるかの如くに自明視されている。しかし前章で見た通り、政教分離、より正確には、「国家と教会の分離」はキリスト教の成立の特殊な歴史を背景としており決して普遍的に適用可能なものではない。本章では「政教分離」をより詳細に分析しその歴史拘束性をより詳細に分析し、イスラームに当てはめることの誤りを論証する。  「政教分離」が、政治と宗教の分離を意味するとすれば、政治と宗教という別々のものを混同せずに分けることは一件、当然に見える。しかし、もし政教分離が、社会分化に基づく普遍的な原則であるとすれば、なぜ他の領域との分離が論じられないのかが説明できない。高度に社会文化を遂げた近代社会にあっては、経済、法、科学、芸術、教育などは、宗教と同じく政治とは文化を遂げた別領域であり、宗教と政治が分離されるべきであるなら、経済、法、科学、文化、芸術、教育などもまた政治から分離されなければならない。また宗教と同じ人間の精神、分化の領域に属するイデオロギー、共産主義、資本主義、社会主義、世俗主義、ナショナリズムなどの様々なイデオロギーも同様である。ところが、それらの政治との関わりは問題にされることなく、政教分離のみが近代国家の原則であるように、喧伝されるのが何故かが問われなければならない。  答えは、ヨーロッパの歴史にある。既に述べた通り、ヨーロッパにおいて、キリスト教会は、ローマがキリスト教化される前から300年以上にわたり、非合法カルトとしてローマ帝国に対抗する政治組織であり、ローマ帝国がキリスト教化されて以降も、ローマ帝国と教会とは、二つの政治組織として主導権を争ってきた。西欧の中世においては両者の対立は、皇帝と教皇の対立として叙任権闘争、カノッサの屈辱(1077年)、教皇のアヴィニョン捕囚(1309年 - 1377年)などの事件を引き起こした。近代に入ると西欧では教会がローマ・カトリック教会とプロテスタント教会に分裂する一方、神聖ローマ帝国の帝権が空洞化し王国が乱立するに至るが、これれの「諸」教会と諸「国家」の対立は、様々な変奏を生み出しつつ現代に至るまで続いている。しかし西欧においては、近代以降の教会と国家の権力闘争は「領域国民国家」成立後、国家権力の不可逆的な肥大化、教会権力の縮小の一途を辿った。世俗化とは、まず国家が教会領を没収し経済的独立を奪い、学問研究及び教育を教会から引き離すことであった。  以上から、なぜ西欧で今日、「政教分離」「だけ」が近代国家の原則であるかのように言われるようになったのかが理解できる。それは特殊西欧的歴史の中で教会が国家の「政治的」対抗者であったために、国家が肥大し、経済、法、科学、文化、芸術、教育などの生の全ての領域を併呑し「政治化」する中で、「宗教」を基礎とする教会を「政治」から排除する必要があったからなのである。それ故、「教会」という「国家」に対抗する「政治組織」を有さない宗教以外の領域は、政治との分離が問題にされることはなく、むしろ歯止めのない国家管理化、「政治化」が進んでいるのである。  「政教分離」が、特殊西欧的な「教会」と「国家」という二つの「政治団体」の間の権力闘争の中から生まれたもので、もっぱら「国家」が「教会」から権力基盤を奪うための道具、口実として用いられてきたことを理解すれば、「政教分離」の理由とされるものもまた、権力闘争の口実以上のものではなく、合理性を有さないことが明らかになる。  16-17世紀の西欧で多数の死者を出したプロテスタントとカトリック間の「宗教戦争」が「政教分離」の原則を生んだ、などという説明がされることもある。しかし「政教分離」がなされたことは、ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦などの戦争を防ぐのになんらの効果も及ぼさなかったし、それらの戦争の主因となった「ナショナリズム」が戦争を引き起こしたとの理由で政治に関わることを禁じる原則が成立することもなかった。  また「政教分離」が、人間の内心に関わる問題と国家権力との結びつきの危険から説明されることがある。しかし近代国家は、学校教育を手中に収め「国民教育」を義務化してからは、人間の内心の管理・統制をますます強化しつつあり、前章でフロムやユルゲンスマイアーの言葉を引いて明らかにした通り、宗教の一種、あるいは宗教の代替物、機能的等価物である「世俗的ナショナリズム」の教義を強制し、洗脳を行っているのである。現在の「領域国民国家」は、世俗主義ナショナリズムのイデオロギーの上に成り立っている。それが、現代国家が、「政教分離」原則の名の下に、「宗教」を無力化し、国家の完全な管理下におくことに執着する真の理由なのである。  高度に発達した社会では機能的に異なる複数の自律的な領域に分化すること自体は普遍的に見られる現象であり、様々な社会、文明において、我々が日本語で「宗教」と呼ぶような領域が、「政治」と呼ばれる領域から分化することは事実である。しかし、ここで我々は、キリスト教の歴史を思い起こす必要がある。  キリスト教はローマ帝国にとって、全き他者として出現した。一神教としてのキリスト教は、ローマの多神教の内部から自生的に発達したものではなく、外部のユダヤから継ぎ穂されたものである。キリスト教が現れる以前に、ローマ帝国は自生的な社会分化を遂げていた。ローマの建国神話は初代の王を軍神マルスの子としたが、王政期には既に「宗教」と「政治」の社会分化が生じ「宗教」は神官によって担われることになっていた。しかし、この最高神祇官職は、純粋な「宗教」儀礼のみに関わるわけではなく、大きな政治的権限も有しており、有力な「政治家」によって占められるのが常であった。帝政期になると、皇帝が最高神祇官(Pontifex Maximus)職を兼ねる慣習が成立した。キリスト教の国教化に伴い、皇帝が最高神祇官を兼職することはなくなり、後にPontifex Maximusは教皇の称号の一つとなるのである。  このローマの社会分化の歴史の中にキリスト教は位置を占めない。キリスト教会はローマ帝国の国家機構の内部のローマの神官団から生まれたものではなく、ローマ帝国の外部の非合法カルトとして別途の政治組織として発達を遂げたものが、ローマ帝国と野合したに過ぎない。それゆえ、この社会分化の変則であるキリスト教の政教関係をもって、全ての文明、社会のモデルとすることにはそもそも無理があるのである。 社会分化の理解には、生物の細胞分化との比較が有用である。人間の身体では栄養吸収に特化した腸と、ガス交換に特化した肺が分化しているが、体機能の分化が個体の生存のためである以上、それぞれの器官が完全に分離しているわけではなく、全ては有機的に繋がっている。腸と肺は血管によって心臓に繋がっており、心臓は腸が吸収した栄養素と肺が取り入れた酸素を血液に乗せて全身に運ぶ。社会分化も同じであり、機能的に特化して分化した各領域は互いに有機的に関係しつつ全体社会を構成しているのであり、どの領域であれ完全に他の領域から切り離されることはありえない。ある領域が他領域から、完全に分離されるなら、その領域は全体社会の一部とはもはや言えなくなるからである。 また分化はさまざまな経路を辿ることがある。昆虫では栄養素は腸から体液によって直接細胞に浸透する一方、空気は気管を通じて全身に運ばれる。昆虫では血管や肺は分化していないが、人間の血管は、栄養素と酸素の双方を全身に運ぶ作用を担っており、昆虫のように空気だけを全身に運ぶ気管は血管から分化していない。同様に文明や社会も、ある文明や社会では高度に分化した領域が、他の文明や社会では文化していないこともあれば、分化の仕方が違うこともある。 高度に分化した社会で、政治と宗教の分化は生じ有るが、政治と宗教が分化した場合でも、両者が完全に分離することはありえない。「政教分離」は端的に存在し得ない。言いうることはただ、宗教と政治が分化した社会においては、相対的に自立した宗教の領域と同じく相対的に自立した政治の領域が分化し、両者は複雑な社会関係の中で多様な関係を取り結ぶ、との事実の指摘のみである。 政教関係は無限に多様な形態を取りうるので、「政教分離原則」なるものには内実はなく、それぞれの国で支配的な政治勢力の恣意によって決まっている。従って同じく政教分離の原則の下にあるはずの西洋ですら、フランスでは公的領域から宗教を全て排除しようとするのに対し、アメリカでは公的領域における「特定の宗教のみ」の優遇が禁じられるだけであり、ドイツでは国立大学に神学部が存在しているばかりか国家が教会税を代理徴収しており、イギリスには英国国教会が存在し(女)王が国教会の首長を兼ねており、既述の通りバチカン市国に至ってはローマ教皇が名実ともに国家元首である。 「政教分離原則」なるものが生まれたとされるキリスト教西洋ですら、現代においてなお、「政教分離」の名の下に実際に語られているのは、政教関係の多様な実態であり、政教分離の不在でしかない。そうであるなら、非キリスト教非西洋世界で、「政教分離」原則が成立しないのは当然である。イスラーム世界で最も世俗化した国と言われ、西欧でも最も厳格なフランス型の「世俗主義(laïcité)」に範を取り「世俗主義(laiklik)」を掲げるトルコが「宗務庁(Diyanet İşleri Başkanlığı)」を有し、モスクの礼拝導師が国家公務員であることを例に挙げれば、「政教分離原則」などという内実を欠く虚偽の概念をイスラーム世界に持ち込む愚は明らかであろう。  社会分化を遂げたいかなる社会においても、機能分化したそれぞれの下位システムは相対的な自律性を保ちながら他の下位システムと有機的に結合し全体システムを形作るのであり、各下位システム間の完全な分離は有り得ず、政治システムと宗教システムも例外ではなく、政教分離は存在しない。問うべきは、イスラームにおいて、政治と宗教はどのように分化してきたか、である。  我々は既に、イスラームのスンナ派とシーア派の教義に即して、使徒ムハンマドの権威の継承、という視点から、イスラームにおける政治と宗教の関係を概観した。本章では、システム分化という視点から、イスラームにおける政教関係を再整理しよう。 使徒ムハンマドが生まれた当時のアラブ社会は、国家を持たない部族社会であり、未分化な環節社会であった。政治、経済、宗教といった領域は分化しておらず、政治に特化した政治化、経済活動に特化した経済人、宗教儀礼の専門家である宗教者といった職能集団はまだ存在しなかった。 使徒ムハンマドがマディーナに「教団国家」を樹立した後でさえ、例えばジハード(聖戦)を例に取ると、ジハードの命令は、宣戦を命ずるアッラーの啓示を伝える使徒ムハンマドが教団国家全体の政治的決定として戦士を招集し、自ら軍司令官として戦線に立ち、戦利品を「お前たちが戦利品として得たものは何であれ、五分の一はアッラーのものであり、使徒と、その親戚と、孤児と、貧者と、旅人のもの・・・」(クルアーン8章41節)に従って立法者、行政官として戦士に分配した。 使徒の存命時、職業軍人、常備軍は存在せず、国民皆兵が原則でジハードは自弁で参戦できる成人男性が全て参加するのが原則であった。ジハードは軍事行為であるのみならず、自らの財産を費やし命をかけて行うアッラーへの崇拝、献身の最高の形態として宗教行為であると同時に、国家元首としての使徒の指示に従って新興の教団国家の存亡をかけて行われる政治行為でもあり、その戦利品によって戦費を賄うだけでなくウンマの福利厚生をはかる経済行為でもあった。使徒の時代にあっては、軍事、政治、法、経済、宗教は社会のそれぞれが社会の機能として未だ自律的な領域に分化しておらず、またそれぞれに特化した専門職にも分かれていなかった。 使徒ムハンマドの権威は、宗教、軍事、政治、法、経済が未分化であり、彼の体制は、西欧で神の代理人である政治支配体制を意味するtheocracy(神権政治)、あるいはhierocracy(聖職者政治)と呼ぶことが可能であった。シーア派のイマームによる統治も、理論上はこの類型にあたったが、スンナ派第4代正統カリフでもあった初代イマーム・アリーを除く歴代イマームたちは政治的実権を有さなかったため、具体的現実的な支配のモデルを作り出すことはなかった。シーア派の状況が一般するには現代のイラン・イスラーム革命を待たなければならならい。そこで本章ではシーア派の歴史的展開の詳細については割愛する。 スンナ派では、使徒の未分化な権威は、神意を独占的に信徒に伝える、という使徒の超越的な法的・宗教的権威を除き、カリフが継承した。しかし、ここで注意が必要なのは、イスラームにおいては、西欧の人文・社会科学の用語では表現できない天啓法シャリーアの領域が、政治と宗教から明確に分化していることである。天啓法シャリーアの立法はアッラーの大権であり、使徒ムハンマド自身もその伝達者に過ぎず立法権は有さなかった。しかし信徒にとっては、使徒ムハンマドは、アッラーの立法を信徒に伝える唯独りの法布告者であり、立法者に等しかった。この使徒の立法者としての機能は、彼の逝去と共に終わり、シーア派のイマームにさえ継承されず、イマームは天啓法シャリーアの最終解釈権のみを有するとされるに留まった。 神、来世、天国などの不可視界の事象とのアクセス可能性に関わる「宗教的」あるいは「霊的」領域は、天啓法シャリーアの領域とはイスラームでは明確に区別される。天啓法シャリーアの領域と「宗教的・霊的」領域は、使徒ムハンマドの死後、明確に分化し、法告知者、立法者としての権威は消滅し、その最終解釈権のみを、シーア派ではイマームが受け継ぎ、スンナ派ではイスラーム法学者たちが集団として継承することになる。不可視界の事象のアクセス可能性に関する宗教的・霊的権威については、スンナ派では、スーフィーたちが集団で継承するが、どのイスラーム法学も天啓法の無謬の最終解釈権を有さなのと同様に、スーフィーたちも不可視界の事象に対するアクセスを有さない一般信徒に対して自分たちが正しいと無謬性を主張する権威を有さない。 初代カリフ・アブー・バクルは使徒ムハンマドの政治的指導者としての権限は継承したが、宗教的権威は継承せず、法的権威、あるいはシャリーアの解釈権に関しては、同輩の中の第一人者であるに留まり排他的独占的最終権威は継承しなかった。 ムスリム社会の分化が進むのは、第二代カリフ・ウマルの時代であり、彼の時代には、国庫が制度化され、俸給を得る職業軍人、地方総督などの公務員などが生まれた。宗教に関しては、イスラームは、キリスト教とは全く違った分化を遂げる。キリスト教においては、イエスは神とされ、初代教皇ペテロは神の代理人として救済の権限(繋釈権)を有するとされ、教皇の権限を分有し秘蹟(サクラメント)を行う権限を有する聖職者(祭司)階級が成立する。一方、イスラームでは、キリスト教の儀式と相同である礼拝なども、祭司が執り行う権限を有する「秘蹟」ではなく、万人が自ら行うべき「義務」と位置づけられており、集団礼拝の先導者にも、特別な資格はなく誰でもが行いうる。 従って、イスラームには、宗教儀礼を専門に執り行い信徒に救済を与える権限を有する祭司階層は成立しなかった。イスラームで分化したのは、祭司ではなく聖典に通じた学者階層であった。「学者(ウラマーゥ)」自体は職業ではなく、使徒ムハンマドの孫弟子の世代に属するスンナ派4法学派最古のハナフィー法学派の学祖アブー・ハニーファは未だに商業を生業としていたが、学者階層の成立と共に、学者の多くは、学校(マドラサ)教師となり、また天啓法(シャリーア)を含む聖典の性格上、教師と並んで裁判官(カーディー)が学者(ウラマーゥ)、イスラーム法学者(フカハーゥ)の職業となる。裁判官(カーディー)は使徒の弟子の時代にはカリフとその地方総督が兼任していたが、徐々に専門分化し、アブー・ハニーファは鞭刑に処されながらもカリフからの司法長官の就任依頼を断り続けたが、彼の高弟のアブー・ユースフが司法長官の地位に就いて以来、裁判官は、イスラーム法学者が就任する慣行が確立し、カリフを頂点とする政治的権威とウラマーゥ(学者)が担うシャリーアの権威の分化は完了する。 シャリーアの権威の担い手としての学者(ウラマーゥ)と宗教的・霊的権威としてのスーフィーの分化もまた、およそジュナイド(910年没)からクシャイリーらの古典期スーフィズムの確立期には完了する。 既に述べたように、キリスト教西洋は、法と法律を明確に区別できない。勿論、西洋には、ギリシャ・ローマ以来、永久法-神法-自然法-万民法-市民法-人定法などの区別を論じてきた。しかし、キリスト教西洋においては、永久法-神法も、人定法、市民法も共に法の下位区分なのであり、全てが法であることに変わりは無い。一方、イスラームにおいては、天啓法シャリーアのみが法なのであり、法律は政令(執行命令)(カーヌーン)であり法とは別のカテゴリーの政治の下位区分となるのである。 そして世俗近代国家の思想は、国家を至上のものとし、国家に主権を与えた上で国家権力を立法権、行政権、司法権に分けるが、イスラームにおいては主権は神にあり、神の主権は天啓法シャリーアに具現化されている。そしてそのシャリーアの内容を定める権限、即ち立法権に相当するものは、ムスリム社会(ウンマ)を代表するイスラーム法学者に委ねられる。天啓法の範囲内で政治を行う行政権は、カリフを元首とする国家に委ねられる。そして天啓法の具体的事例への適用に対立があった場合に強制力を有する判決を下す司法権はカリフの任命したイスラーム法学者の裁判官に委ねられる。 要約すると、キリスト教において権威が、教皇/教会の教権と皇帝国家の俗権に分化したのとは異なり、イスラームでは権威は、カリフに代表される政治的権威と、法学者に代表されるシャリーアの法的権威と、スーフィーに代表される宗教・霊的権威に分化したのである。それゆえイスラームをキリスト教的な「政教関係」の概念で分析しようとすれば、キリスト教の歪んだ像が見えるだけなのである。  キリスト教の「政教分離」概念は、ローマの自生的な社会分化ではなく、最初から、ローマ帝国の「国家」、ローマにとって外来のユダヤ社会から生まれた非合法カルトのキリスト「教会」、という別個の二つの組織の対立に基づくため、政治と宗教関係の普遍的なモデルとはなりようがないのである。  カトリックの公法学者カール・シュミット(1985年没)が喝破した通り、「近代国家の重要概念はすべて世俗化された神学概念である」。キリスト教西洋で生まれた近代国家の諸概念は、全てキリスト教(カトリック)神学の刻印を押されている。しかし、近代国家の中に生まれ育った我々にはそれを意識化することは難しい。世俗的ナショナリズムが一種の宗教であることは既にの述べた。我々が生きる現代を理解するためには、近代国家の宗教的性格を歴史的に跡付けることによって、我々の生の全てを包摂し支配する「リヴァイアサン領域国民国家」を対自化する必要がある。 ホッブスは国家、あるいはリヴァイアサンを「人造人間(Artificial Man)」と呼んだ。ホッブスは、国家を「可視の神リヴァイアサン」と呼ぶと同時に擬人化した。人造人間にして神、ホッブスは、近代国家リヴァイアサンの本質である。 キリスト教ヨーロッパは聖書の言葉「教会はキリストの身体」(エフェソ 1:23)に基づき、教会を「キリストの神秘体(corpus Christi mysticum)」とみなしてきた。教会は生身の人間である個々の信徒の集合であることを超えて、神秘的な神の体として実体化される。 中世のヨーロッパでは教権と王権、教会と国家の対立の中で、教会がキリストの身体であるのと並行する形で、王が自然的身体と超自然的身体を有し、王の超自然的身体は不死の神授の王権の具現であるとみなす「キリストの神秘体」を世俗化する政治神学が発展した。(カントロヴィッチ『王の二つの身体』) イスラームとキリスト教に共通することであるが、前近代の世界観においては、神こそがリアリティーであり、この世は仮象と捉えられていた。教会、国家は、キリスト教神学を媒介に、構成員の集合を超越した神秘的実体となった。これが近代「世俗」国家の偶像神化を用意したのである。それが、「精神が自らを現実の形にし自らを世界の有機的組織へと展開した現実に存在する精神としての神の意思」、世界精神の自己展開としての国家である、 国家、リヴァイアサン、は人間が作った人造人間でありながら人間を超えた実体を持ち可死の神となり人間を支配する。絶対王政の時代、人造人間であると同時に可死の神であった近代国家リヴァイアサンは、ヨーロッパにおいて王政が民主制に取って代わられ、王権が消滅し、教会と国家の戦いが国家の勝利に終わったとき、神を名乗ることを止め、現代国家は真の偶像、人神、に姿を変える。「法人」という名の人神に。 「法人(corporation, legal person, artificial person, juridical person, body corporate)」概念はラテン語corpus(身体)を語源としローマ法にその淵源を有するが、「人造人間(artificial man)」リヴァイアサンをその母型とし、全面的展開を見るのは西欧近代国家においてである。 国家リヴァイアサンが人間を支配する武器は「法律」という名の命令(執行命令、政令)である。「人造人間」リヴァイアサンは「法律」によって次々と「人造人間」を産み出し自己増殖することが可能となる。「法人」は「人造人間」リヴァイアサン「国家」の自己増殖、リヴァイアサンの肢体なのである。 「法人」とは、法律によって、義務と権利の法的主体となることを認められた擬制の「人造人間」である。そして、今日、周囲を見回すと、我々は自分たちがこの人造人間によってすっかり包囲されていることに気づく。人は今や母親と産婆の手によってではなく、医療法人「病院」の手によって誕生し、それはリヴァイアサン「国家」の手先の地方「自治体」によって登録され、「学校」法人によって洗脳され、会社(=「法人(coporation)」)に就職し、退職しリヴァイアサンから年金を貰い、「病院」で死に、「宗教法人」と葬儀「会社」に処理され、地方「自治体」によって死亡を認められる。水、電気、ガス、電話といったライフラインも全ては「法人」の手にあり、我々が何かを手に入れるのはコンビニ、スーパー、商店などであり、「人間(=自然人)」である「商人」に出会うことはもう殆どない。「親子」、「夫婦」でされ、リヴァイアサンの認知を得て初めて、その権利義務が発生する、という意味において、「人間(=自然人)」ではなく「法人」である。もはや我々の周りには「友だち」ぐらいしか「人間(=自然人)」は残っていない。 我々は、医療ミスがあれば病院に補償を求め、いじめがあれば学校を訴える。それどころか、不況で倒産の危機が生じれば、航空会社や銀行などの巨大法人が国家リヴァイアサンに援助を求める。そしてリヴァイアサンは何兆円もの債権を中央銀行などの金融機関に引受させる。リヴァイアサンとその生み出した法人たちに責任を押し付けることによって、生身の人間の責任はいつの間にか何処かに雲散霧消する。我々は、知らず知らずのうちに物質的利益のためにリヴァイアサンとその配下に魂を売り渡しその支配に身を委ねてしまっている。「可死の神・人造人間」リヴァイサンとその配下の法人たちへの隷属こそ今日の偶像崇拝、多神教なのである。 我々は国家リヴァイアサンを頭とする法人に日常的に囲まれて暮らしており、法人の存在を自明視しているが、実は「法人」概念が世界に広まるのはヨーロッパに成立した近代国家の帝国主義的拡張により、世界の全てがヨーロッパの文化植民地となって以来である。 現在では、世界は全てヨーロッパの文化植民地であり、イスラーム世界も例外ではないが、本来イスラームには法人概念は存在しなかった。なぜイスラームには法人概念が存在しなかったのか、次章ではイスラームにおける法人概念の不在をイスラームの世界観に照らして明らかにしたい。  イスラームの世界観はアニミズムであり、森羅万象はアッラー讃えている。ただ我々がそれを理解できないだけである。 「7つの天と地とその中の者は彼(アッラー)を讃える。彼への賞賛をもって讃えない物は何もない。ただ汝らが彼らの讃美を理解しないだけである。・・・」(クルアーン17章44節) 人間だけを理性的存在として特別視する発想はイスラームには無縁である。森羅万象は全て霊的存在であり、それぞれの言葉でアッラーを称えている。イスラームにおいて人間を他の存在者と分けるのは、アッラーの命令に従うか背くかを自ら選ぶ意思の存在である。森羅万象が選択の余地なく必然的にアッラーを讃えているのに対し、人間だけがアッラーに背き得る。罪を犯し得る倫理的存在であることが人間の本質である。  罪を犯し罰を引き受ける可能性と引き換えに、自らの意思でアッラーの命令に従いアッラーの下僕となる可能性を選び取ったことのうちに人間の尊厳と栄光の全てが存ずる。アッラーから授かった自らの義務を負う責任を放棄し自分たちが作った人造人間「法人」に肩代わりさせることは、アッラーの下僕たる倫理的存在としての人間の本質の否定に他ならない。  既述のようにイスラーム法は人間の行為を来世の賞罰によって(1)行わないことが来世での懲罰に値する義務行為、(2)行わなくとも来世での罰はないが行うことで来世の報償に値する推奨行為、(3)行っても行わなくとも来世で罰も報償もない合法行為、(4)行っても来世で罰はないが行わなければ来世で報償に値する忌避行為、(5)行えば来世で罰に値する禁止行為の5つの範疇に分ける。  人造人間たる「法人」は義務を負うことも、来世で報償を得ることも懲罰を被ることもありえない。イスラーム法には「法人」の存在を認める余地はないのである。  イスラームは義務を個人的義務(farḍ ‘ain)と連帯義務(farḍ kifāyah)に分ける。個人的義務とは一日に5回の礼拝のように誰もが行うべき行為である。一方、連帯義務とは、カリフ擁立やジハードのように、ウンマ(ムスリム共同体)の誰かがそれを行えば他の成員は責任を免除されるが誰も行わなければウンマ全体が罪に陥り懲罰に値するような行為が該当する。 アッラーが独一(farīd)であるごとく、人間もまた独一に創られており、一人一人が能力において異なっており、能力の違いに応じて負う義務も異なる。ウンマの成員はそれぞれが分相応の固有の義務を負い、ウンマ全体に関わる連帯義務は、有力者たちがその力に応じて担うことになる。 現代アラビア語で「会社法人(cooperation)」はsharikahと呼ばれる。「法人」概念を持たないイスラーム法においてはsharikahとは、資本を共有し互いに代理人として商行為を行い資本の比率に従って配分する契約行為類型を指す。商行為に限らず、代理(wikālah)は同意によって成立し、依頼人に代わって法的に有効な行為を行うことができる。同じく法的行為の代行であっても代理は、子供や禁治産者などの制限行為能力者に対してイスラーム法の定める条件に従って任命される後見(wilāyah)とは違い、対等な行為能力者間の関係であり、依頼人の同意によって成立し、依頼人に代理人に不満があれば代理契約を解約し解任することができる。 この「代理」、定額の賃金と特定の労働の交換である「雇用(ist’jāl)」などの概念を組み合わせることにより、いかなる強大な商行為といえども、「法人」を必要とせず、個人の集合が行うことができる。つまり最終的にあらゆる行為の責任が「法人」に押し付けられて雲散霧消することなく「自然人」に課され、イスラーム法が機能するのである。 統治行為もまた、代理、雇用、後見、連帯義務などの概念を組み合わせることによって自然人の行為として概念構成することができ、国家のような法人概念を必要としない。  こうして、連帯義務、代理、後見、雇用などの概念を用いることにより、イスラームは、法人概念を必要とせず、来世における懲罰と褒章に裏打ちされたイスラーム法の有効性を損なうことなく、国家や巨大企業が果たすべき機能をあくまでも個々人に担わせることが可能になるのである。 欧米における「政教分離」とは本来「政治と宗教の分離」という「規範」ではなく、「国家とキリスト教会の分離(Separation of State and Church)」という「事実」であり、政治とは一義的には国家によって営まれる権力関係行為であった。 欧米において国家は人造人間にして可死の神たる「法人」リヴァイアサンとなり、神とから主権を簒奪し人間を支配する偶像となったが、このリヴァイアサンは、「立法」の名において、その命令、「法律」によりリヴァイアサンの肢体となる無数の「法人」を産み出し、これらの「領域国民国家」を頭とする「法人」は、欧米の帝国主義・植民地支配により領域国民国家、地球全土を覆い尽くし、人類の生の全ては「国家」の管理統制下に入る、つまり政治化される。全ては政治となる。  現代国家の下で宗教は完全に自律性を失う。政教分離原則の名の下に、「宗教」とは何か、「宗教」の範囲は国家によって決定され、国家によって「政治」と認定されたものは、宗教が介入できない領域になる。現代においては一見すると「宗教」を奉じているように映る現象も、実は「宗教」を定めた「国家」に従っているに過ぎず、「信徒」の究極の服従の対象は「国家」であって、「超越者」でもなければ「宗教」でもない。 既述の通り、フロムやユルゲンスマイヤーが明らかにしている通り、世俗主義ナショナリズムが、戦争の際にその偶像神「国家」に人柱を捧げる、教義、神話、倫理、儀礼を持つ「部族宗教」の一種である。 そして世俗主義ナショナリズムはリヴァイアサンを祭神とする「政教一致」の宗教でもある。ローマや日本の多神教が、他の宗教の神話を換骨奪胎し、その神々を適当に作り替えて取り込み、メタモルフォーゼ(変態)を続けていったのと同じく、世俗的ナショナリズムもまたあらゆる宗教を便宜主義的に歪曲して取り込むアモルファス(不定形)な多神教である。中国において国家が雨田如来の化身「活仏」パンチェン・ラマを認定することによって、チベット仏教は中国ナショナリズムという多神教に取り込まれ、パンチェン・ラマは国家を主神とする神統譜に組み入れられたのである。  イスラーム世界においても事情は変らないが、仏教とイスラームの宗教としての形態の相違から、世俗主義ナショナリズムへのイスラームの取り込み、イスラームの取り込みは別のチベット仏教とは別の形態を取る。  既述の通り、ムハンマド・ブン・アール・アル=シャイフは、西洋の人定法に裁定を求めること、つまりシャリーア以外の立法、議会による「立法」という名の人間が作った法律の強制を、多神崇拝の最悪の形式である、と喝破した。  今やイスラーム世界の全ての国に議会があり、そこで「立法」が行われているが、これらの国々の多くは、憲法の中でシャリーアを法源の一つとしている。そしてこれが、超越者の権威がシャリーア、イスラーム法に顕現する形をとるイスラームにおける多神教の形態である。  オリエンタリストの定説でも、イスラーム諸国では相続法などの家族法の一部を除きシャリーアは施行されていない。しかし実は、相続法などにしても、たまたま法律がイスラーム法の規定と一致していたとしても、それはイスラーム法とは似て非なるものである。なぜならそうした相続法は、西洋の法を継受した刑法や商法のような他の法律と同じく、アッラーの意志への服従を目的としない異教徒も交えた議員たちの意志の表現でしかなく、議会が制定したことによって暴力装置である国家の強制を背景に現世で通用するだけの国家の命令に過ぎず、そこで従われているのは、アッラーではなく国家でしかないからである。  イスラーム世界の現状は、国民の「一般意志」の化身とされる国家を主神とする世俗主義ナショナリズムという宗教において、国家の命令体系の中で僅かにその権威を相続法において認められた陪神の一人にアッラーが貶められた多神崇拝が蔓延するジャーヒリーヤ(無明)に他ならない。  現代世界は領域国民国家が地上の全てを覆い尽くした時代である。そして領域国民国家が人間の生の全てを支配する偶像神リヴァイアサンであり、その「宗教」は国家「リヴァイアサン」を主神とする政教一致の多神教「世俗主義ナショナリズム」である。 国家「リヴァイアサン」は「法律」の制定によってその肢体となる無数の「法人」を産み出し国民の生の全てを「国家」の管理統制下に入れ政治化した。ところが、国家リバイアサンのイデオロギーは「政教一致」の世俗主義ナショナリズムであるため、現代において、人間の生の全ては政治化されると同時に宗教化されたのである。そしてそこで「宗教」と呼ばれているものは、政教分離原則の名の下に、領域国民国家の支配を脅かさない、政治・経済・社会にいささかの影響も及ぼさない些末な儀礼や口先だけのお題目だけであり、世俗主義ナショナリズムという国民生活の全てを律する宗教の表層、周縁に縮減されてしまっている。 人間の生の全てが世俗主義ナショナリズムに取り込まれ、政治であると同時に宗教となった現代において、偶像崇拝を否定し多神崇拝を拒否しアッラーのみに崇拝を捧げ絶対服従する唯一神教イスラームもまた政治化されなければならない。現代におけるイスラームとは、生活の全て領域を政治/宗教化した偶像神リヴァイアサン領域国民国家の支配を打破し、世俗的ナショナリズムに取り込まれ多神教の周辺的構成要素の一つに貶められた「宗教」としてのイスラームから脱却することに他ならないのである。  イスラームが唯一神教である、とは、アッラーが多神教の神統譜の中に組み込まれることがあってはならない、ということを意味する。アッラーは神統譜の中の陪神であることは言うまでもなく、主神であることも決して許されない。アッラーは唯独りの神でなければならない。それがタウヒード(唯一神崇拝)である。人は、アッラーのみを神とする唯一神崇拝者(muwaḥḥid)、ムスリムであるか、あるいは多神教徒(mushrik)、不信者(kāfir)であるか、のいずれかであり、その中間は存在しない。  唯一神崇拝者(muwaḥḥid)、ムスリムであるか、あるいは多神教徒(mushrik)、不信者(kāfir)であるか、を分けるのは、イスラーム法の外面的な遵守それ自体ではなく、唯一の服従、帰依の対象としてアッラーを選ぶか、それ以外のものに服従、帰依の権威を認めるか否かである。  前近代のイスラーム世界においては、強力な主権国家も、巨大な会社法人も成立せず、人々の心を支配しうるものは、「超自然的」な力を持つと信じられた「聖者」や「聖廟」のような、我々が一纏めに「宗教的」と呼ぶような事物しか存在しなかった。イスラーム改革運動のパイオニアでありイスラームの不信仰からの浄化、唯一神崇拝の多神崇拝からの純化において最も先鋭な問題意識を有するワッハーブ派の中から、前近代における主要敵スーフィズム、シーア派に代わって西欧の人定法の継受こそが背教にあたる不信仰、最悪の不信仰の形態であるとの『人定法に裁定を求めること』の洞察が現れたのは偶然ではなく、近現代における多神崇拝の位相転換を象徴している。 人間の生の全てを支配する偶像神リヴァイアサン主権国家が成立する以前には、政治は国家の独占物ではなく、ウンマの成員ムスリムの間で各自の能力に応じて分担されていた。ところが、政治が主権国家の専有物となった現代においては、人間の生の全てが政治化されており、政治から逃れる術はない。 既述の通り、クルアーンにも、ハディースにも、「政教分離」という概念はなく、そもそも現代的意味での「政治」という概念すらない。我々が「政治」と呼ぶ、戦争、死刑などの法定刑の執行、徴税など、我々が政治と呼ぶような行為は、「政治」として範疇化されているのではなく、個別に命じられている。そしてそれらを一つに纏めて「政治」と呼び、政治であるが故に行わなくてよい、などとはどこにも言われていないばかりか、啓典の命令の一部だけを行い、別の命令を無視することは、以下のように激しく批難されている。 「・・・それなのに汝らは啓典の一部を信じながら、他の部分は拒否するのか。そのような行いをする者には現世で恥辱があり、来世では最も過酷な懲罰に処されよう。・・・」(2章85節) イスラーム法において、戦争、法定刑の執行、徴税などはウンマ(ムスリム共同体)全体に課された連帯義務である。つまり為政者がそれを行っていれば、他のムスリム「民衆」はそれを行うことが免じられるが、為政者がそれを怠ってる場合には、他のムスリム「民衆」もそれを怠り、行われないままに放置すれば、為政者のみならず、民衆も含め全てのムスリムが罪に陥ることになる。  クルアーンの命令に、クルアーン自体の中に存在しない西欧の「政治」の概念を恣意的に持ち込み、その上で西欧の「政教分離」の原則に従い、クルアーンの命令を拒絶し、イスラーム政治運動を「政治的イスラーム」の蔑称で呼び、「自分たちは政治から遠ざかり宗教に専心する」と主張する自称「リベラル」、「世俗主義者」たちはその実、「政治から遠ざかる」との言葉とは裏腹に、クルアーンの中で明言されたアッラーの命令を無視する一方で「国家」の制定した人定法の命令には100%絶対服従するのみならず、西欧的「政教分離」政策にコミットし荷担した上にイスラーム法の施行を求める運動の妨害工作の一翼を担うという極めて「政治的」な行動を取っているのである。  人間の生の全てを支配する偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」によって全面的に政治化されたイスラーム世界の文脈において、「政教分離」、「世俗主義」を唱え「政治から遠ざかる」ことは、「世俗的ナショナリズム」祭政一致の多神教を奉じ、その主神リヴァイアサンに仕えることであり、それ自体が極めて宗教敵であると同時に政治的な行為なのである。 イスラーム世界の「現代」は内発的にもたらされたものというよりは、ヨーロッパから力づくで押し付けられたものである。20世紀初頭には、イスラーム世界で名目的にであれ独立を保っているのは、トルコのオスマン朝、イランのカージャール朝、そしてアラビア半島のサウディ・アラビアのわずか3国を数えるのみとなっていたのである。西欧による露骨の植民地統治は第二次世界大戦後の民族主義の高揚によるアジア・アフリカ各地での相次ぐ植民地の独立により1960年代に、ロシアによる植民地統治は90年のソ連崩壊によって終わりを告げる。 しかしイスラーム世界各地の旧宗主国からの「独立」とは、イスラーム世界の自立性の回復などでは全くなく、むしろ西欧的国際システム、即ち「領域国民国家」の承認に他ならなかった。つまり西欧の植民地支配からの独立とは、イスラーム世界が西欧国際システムの価値観を内面化し、システムの一部に自ら組み込まれたことを意味し、その国際システムの価値観の内面化を準備したのが、植民地統治下の「近代化(=西欧化=イスラーム殲滅)」政策であった。イスラーム世界の直接的な植民地支配の終焉は、より隠微な間接的な政治・経済・文化的支配に取って代わられただけであった。 現代世界は、偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」が地上の全てを覆い尽くし、「世俗的ナショナリズム」という名の多神教が人類に蔓延した時代であり、イスラーム世界も例外ではない。それにも拘わらず、この現代世界には、イスラームの名を冠した事物が溢れている。真のイスラームを理解するためには、我々は先ずこれらのイスラームの名を騙る事物の正体を見破らなければならない。  イスラームのあるべき姿は、シャリーアの「法の支配」を実現する唯一のカリフの下に統一されたウンマによる単一の法治空間ダール・アル=イスラームの再興である。民衆レベルにおいては、民族、国家を超えたイスラームの同胞意識と、国境を越えて縦横に張り巡らされたイスラーム学、親族関係、交易などのネットワークに支えられたイスラーム世界の統一への志向性が存在するとはいえ、現代イスラーム世界は、欧米の傀儡たちによって支配され、西欧の「領域国民国家」システムに組み込まれた植民地時代の遺物である。そして既存秩序の改編を迫り支配層の既得権を脅かすこのイスラーム世界の統一への民衆の動きを押さえるべく結成されたのがOIC(Organization of Islamic Cooperation:イスラーム協力機構)(2011年にOrganizaof the Islamic conferenceイスラーム諸国会議機構から改称)である。それは以下に見るような、OICの創設の経緯からも明らかである。 OICとは、その出自からして、イスラームの連帯を謳う憲章とは裏腹に、イスラーム世界の統一とは真っ向から対立するベクトルを有する。つまりOICの内実は、「相互に主権を尊重する」との美名の下に、加盟諸国の支配者の間で結ばれた「互いの縄張りを犯さない」との「紳士協定」、イスラーム世界の再統合の阻止、分裂の現状の固定化し既得権を守るためのカルテルである。そしてその機能はムスリム民衆の目からウンマの分裂の現状を隠蔽し、あたかも連帯が存在しているかのような幻想を与え、ウンマの連帯意識に適当なはけ口を与  現在のイスラーム世界は、「領域国民国家」システムに組み込まれ、「世俗的ナショナリズム」という名の多神教がその支配的イデオロギーであり、イスラームの名を冠した事物もイスラームの名を騙る紛い物である。それは権力を握る「イスラーム諸国」の政権だけでなく、その改革を唱えるイスラーム主義政治運動もまた同様である。  現在のイスラーム主義政治運動はシャリーアの適用を共通のスローガンとする。彼らは現在権力を握る者たちが、シャリーアを施行せず、西欧の法を模した人定法によって支配していることを批判し、シャリーアの施行を訴える。しかしこれらのイスラーム主義運動の殆どは、偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」と「世俗的ナショナリズム」という名の多神教の本質を理解せず、現代におけるイスラームの位相転換の認識を欠き、あるべきイスラーム国家像を提示することができていない。  真のイスラーム国家、即ち、人間による人間の支配、大地の切り分けと囲い込みによる人類の分断をを否定し、天啓のシャリーアの「法の支配」による大地と人類の解放を目指すカリフ制の再興を掲げるイスラーム政治運動は、ムスリム諸国の為政者たちだけではなく、「領域国民国家」システムの管理者たちの既得権を脅かすため、ムスリム諸国内で激しく弾圧されてきただけでなく、思想と結社の自由を謳う欧米などでも行動を制限され、反イスラーム・プロパガンダによる攻撃に晒されている。こうした厳しい状況のため、真のイスラーム国家体制としてのカリフ制に関する理解は、ムスリム「大衆」の間に未だ浸透しておらず、カリフ制の再興を目標に掲げて国際的に活動している組織は事実上「解放党(ḥizb al-Taḥrīr)」のみである、と言っても過言ではない。   2010年から2011年にかけての所謂「アラブの春」において、チュニジアに端を発した反政府暴動はアラブ各地に飛び火し、チュニジアのベン・アリー、エジプトのムバーラク、リビヤのカッザーフィー、イエメンのサーレフと230年に及んだ独裁政権がまたたく間に崩壊し、シリアも内戦状態に陥った。彼らはいずれも人権を侵害し民主主義を抑圧する独裁者であったにもかかわらず、強権的にイスラームを弾圧しイスラーム復興に対する防壁を演ずることで、西欧の支持を取り付け独裁体制を維持してきたが、チュニジアの露天商の政府の不正に対する抗議の焼身自殺をきっかけとした民衆の抗議により、脆くも崩壊した。これらのチュニジア、エジプト、リビヤ、イエメンのみならず、イスラーム世界の諸政権がいずれも、イスラームを弾圧する反イスラーム政権であるのみならず、腐敗し人権を蹂躙する不正な独裁政権であることは、イスラーム世界では万人の知る事実であった。ところがこの30年の間に、国家ムフティー(イスラーム教義諮問官)などの公職にある者は言うに及ばず、イスラーム大学の教授や大モスクの説教師などの高位のイスラーム学者の間にも、また神との特別に親密な関係を誇り超俗を気取ったスーフィーの導師たちの間にも、民衆の側に立ち正義を求め、これらの不正な独裁者に対して身命を賭して抗議する者はたった一人としていなかった。それどころか、政教分離の名の下にイスラームから政治を切り離し、イスラーム政治の実現への献身を「政治的イスラーム」と貶め、たった一人の生命を賭けた抗議で崩壊する独裁政権に対する抗議を封じる込める役割を喜々として果たす御用学者としてこれらの独裁政権の不正に荷担してきたのが、イスラーム学者とスーフィーたちであった。  偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」が生の全ての領域を支配し、人間生活の全てを「政治化」する現代において、リヴァイアサンを主神とする「世俗的ナショナリズム」は国民の身体のみならず精神をも管理統制する政教一致の多神教となり果てている。全てを政治化すると同時に宗教化するこの祭政一致の多神教「世俗的ナショナリズム」の支配下で政治から距離を置くことはできない。ムスリムには、政教分離を唱えて偶像神リヴァイアサンの奴隷に堕するか、リヴァイアサンの支配を拒否し、アッラーの主権を回復するためにカリフ制の再興にコミットするかの二者択一を迫られる。第三の道は存在しない。 「汝(預言者ムハンマド)に下されたもの(クルアーン)と、汝以前に下されたものを信仰すると口先で主張しながら、邪神に裁定を求める者たちを汝は見ないか。彼らはそれ(邪神)を拒絶するようにと命じられているというのに。・・・」(クルアーン4章60節)「信仰する者たちはアッラーの道に戦い、不信仰の者どもは、邪神の道に戦う。それゆえ悪魔の手先たちと戦え・・・」(4章76節)  今日におけるイスラームの試金石は「政治」であり、政治運動は言うに及ばず、霊性の涵養の道であるスーフィズムでさえ、人間による人間の支配、人間が創り上げた偶像「法人」による人間の支配を拒絶し主権を神に返すカリフ制の再興の闘いに参与しない者は信ずるに値しない。  欧米の「領域国民国家システム」の管理者たちとその手先のイスラーム世界の独裁者たちの手によって、真のイスラームの政治理念であるカリフ制について語ることが抑圧され隠蔽されてきたため、世俗的ナショナリズムという偶像崇拝の多神教に絡め取られた紛い物が、イスラーム国家、イスラーム政党、イスラーム運動、イスラーム経済などの名を騙って蔓延し、イスラーム学者もスーフィー導師も政教分離を唱えてこの多神教の祭祀に成り下がってしまった、というのがイスラーム世界の現況なのである。 ある時、預言者ムハンマドは言われた。「食事客たちが大盆に互いに呼ばわり群がるように、四方八方から諸民族が汝らに互いに呼ばわり群がるようになるだろう。」そこで人々が「それはその時(ムスリムの)数が少ないせいでしょうか」と尋ねると預言者は「その時、汝らは多数である。しかし汝らは流れに浮かぶ塵芥のような塵芥なのだ。そしてアッラーは汝らの敵の心から汝らへの恐怖を取り除かれる。そしてまたアッラーは汝らの心に弱さを投げ入れられる。」と応えられた。そこである者が「アッラーの使徒よ、その弱さとは何でしょうか」と尋ねると彼は「生への愛と死への嫌悪である。」と答えられた。アフマド・ブン・ハンバル(855年没)が伝えるハディースである。 末世において、ムスリムたちが数だけは多くとも怯懦な烏合の衆となり、異教の諸民族に支配されることは、イスラームの歴史観に織り込み済みである。 一方、アフマド・ブン・ハンバルは以下のハディースも伝えている。 「おまえたちの中に預言者制はアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで尚武の王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで専制王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。そして預言者職に倣うカリフ制が現れる。」こう語り終えてアッラーの使徒は黙された。 腐敗した独裁者たちの後には、もう一度、預言者ムハンマドの後継者に相応しいカリフが現れる。 アッラーは全知全能の創造主であり、創造から終末に至る世界の歴史の全ては、創造以前の無始の永遠の過去において、既にアッラーの知の中に既に存在する。我々人間の運命も同様である。森羅万象は、時の無い永遠の相において、アッラーの属性「神知」の中に先在する。現象界とは、永遠のアッラーの属性が時間の中で展開した顕現である。 アッラーは言われた。「我は隠れた秘宝であったが、知られたいと欲し、知られるために被造物を創造した。」 時間の中に現象するこの世界は、アッラーの属性の顕現であり、人間もまたその一部である。人間の現象界における存在の目的は、それがアッラーの属性の顕現であることを知ることであり、その時、人は自らもまたアッラーの属性の権限であることを悟る。「誠に我らはアッラーに属する、アッラーの許に還り行く。」(クルアーン2章156節) アル=ナーブルスィーによると、火獄の業火で永遠に焼かれる不信仰の徒も永劫の時を経て、その業火の中にアッラーの荘厳の属性の顕現を見出し、忘我の中に懲罰の苦しみは神の御許への帰還の悦びの至福に変ると言う。 イスラームは人間を宇宙の歴史の中に位置づけ、意味を与える。世界はアッラーの顕現であり我々に知られるべき意味に満ちている。しかしその意味は、偶像の束縛、偽りの神々への隷従から自らを解放し、真の神である宇宙の創造主アッラーの代理人として彼に仕えることによってしか開示されない。アッラーは人類の太祖アーダムの創造にあたって言われた。「まことに我は地上に代理人を置く。」(クルアーン2章30節) それには先ず、人間が引いた国境に人間を囲い込み、民族に縛り付け、人間の創り上げた虚構でありながら人間の身体と精神の全てを支配する偶像神リヴァイアサンの正体を見破り、大地におけるアッラーの代理人(カリフ)としての自らの実存を取り戻す必要があるのである。(クルアーン2章30節)  現代とは、偶像神リヴァイアサン「領域国民国家」を主神とる政教一致の多神教「世俗的ナショナリズム」が世界を覆い尽くし、生の全ての領域を「政治/宗教」化した時代であり、イスラームも「政治/宗教」化を免れない。  永年にわたる西欧の植民地支配により、政教分離の名の下に、イスラームは「政治」から切り離され矮小化され、偶像神リヴァイアサンを主神とする多神教の中に取り込まれてしまった。このイスラームに偽装した多神教が生み出したのが、イスラーム国家、イスラーム経済、イスラーム政党といった紛い物のイスラームである。  この偶像崇拝、多神教からイスラームを浄化し再生させるためには、アッラーの代理人(カリフ)としての人間の霊性を高め、知性を研ぎ澄ませ、心眼を磨き、真理と虚偽を見分けることができなくてはならない。しかしそれは「政治」から離れて「私的領域」、「宗教」に引き籠もって「心の浄化」をはかるのではなく、むしろ人類と大地を「領域国民国家」の牢獄から解き放ちシャリーアの「法の支配」を地上の全人類に実現するカリフ制再興のために自らの能力の限りを尽くして闘うことによってのみ成し遂げることができるのである。

2 件のコメント:

  1. 段落がないので、困ったなぁ。

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  2. 民主憲法であれば、国民として内容を理解する義務は生じる。

    しかし、シャリーアは神の法であり、一般人が神を法を理解する義務が生じるのか、私には疑問である。

    ハディースには、イエスも、マリアも、ムスリムであると書かれているはずである。であれば、誰がムスリムであるかを、法学を理解することで、定義を行うことは不可能である。

    マリヤムのように、清く正しく慎ましく生きることが目標ならば、法学や聖書など理解せずに、正しく生きることも可能ではないのか。

    部族の掟や、武人としての心得のように、シャリーアを扱うべきなのか、私には疑問である。

    システムはシステムであり、多くの人間がシステムを理解する必要性など生じない。

    聖は聖であり、俗は俗である。この両者は区別されている。これに該当する言葉はクルアーンにもある。俗に向けて放たれる聖もまた俗であり、聖ではない。

    あなたが論じていることの多くは、西洋という俗に向けられた、ただの俗である。あなたの言葉に神聖さは宿らない。

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