2011年1月3日月曜日

カブールの日常(上中下)毎日新聞より転載

● カブールの日常:タリバン政権崩壊9年/上 「正月」祝えたけれど
 ◇貧富の差拡大 警察の信用低く
 アフガニスタンは11月中旬、「イード」(犠牲祭)と呼ばれるイスラム教の祭日を祝った。初日の16日、首都カブール北部の市場では、各家庭でさばく家畜を売ろうと地方から牧童が押し寄せた。値段交渉の声が飛び交う中、1万500アフガニ(約2万2000円)で羊を買った商店主のカイムさん(45)は「去年は買えなかった。生活が安定してきた」と笑顔を見せた。

 一緒に市場を回ったアフガン人記者の携帯電話が鳴った。旧支配勢力タリバンの広報官からの「祝イード。あなたと家族の犠牲を神が受け入れるよう祈る」との文字メッセージだった。イードはいわば正月に当たる。駐留外国軍への攻撃を続けるタリバンも「一時休戦」らしい。


「イード」(犠牲祭)で売られる羊の群れ。背後には建設中のビル群が見える 首都は土ぼこりがひどい。街全体が茶白色にすすけ、「戦場の街」特有の姿を今も引きずる。だが、平日は早朝から夕方まで街中の道路が大渋滞となり、身動きが取れない。経済制裁などの影響で車の所有者が少なかったタリバン支配時代にはなかった光景だ。

 カルザイ大統領は就任当初、「国民一人一人が車を持てる日がくるよう毎日祈っている」と語っていた。今は「これ以上増えたら困る」と多くの市民が考えている。

 「ランドクルーザー」や「レクサス」など高級車さえ走る。クドラトゥラ・ロトフィさん(45)が勤める車販売店には、ドバイからイランやパキスタンを通って輸入されたピカピカの新車が並ぶ。日本製の高級車は約500万~1000万円だが、年10台は売れる。買い手は政府高官や外国大使館・非政府組織(NGO)、アフガン人実業家だ。

 だが、ロトフィさんは「買えるのはごく一部。外国からの援助は政府高官に行くか、(復興事業を受注した)支援国に戻っていく。貧乏人は貧しいままだ」とまくしたてた。店の撮影は認めたが、「タリバンから狙われる」と、店名が写らないよう求めた。

 治安権限がアフガン側に移譲されたカブールでは、駐留外国軍の姿を街中で見かけることは少ない。代わりにアフガン警察が市内の要所を守る。宿泊施設や高級飲食店は当局の治安維持能力を信用しておらず、民間警備会社から武装ガードマンの派遣を受けている。

    ◇

 米国の軍事攻撃で、01年11月にタリバン政権が崩壊してから9年。しかしこの間にタリバンは復活し、治安回復を阻む。かろうじて治安が維持されている首都の日常を取材した。【カブールで杉尾直哉】

毎日新聞 2010年11月29日 東京朝刊


● カブールの日常:タリバン政権崩壊9年/中 タリバン兵、首都自由に出入り
 ◇「市民巻き添え常識」
 指定されたカブール市内の民家を訪れると、ひげの濃いパシュトゥン人の男(40)がじゅうたんに寝そべり、くつろいでいた。アフガニスタン南部から来たタリバン兵だ。タリバン政権は9年前に崩壊したが、パシュトゥン人が多く住む南部や東部を中心に勢力を復活させた。その実態を知ろうと、タリバンにパイプを持つ人物の立ち会いで会った。

 男は、電気も水道も学校もない村に住む。「マドラサ(イスラム学校)で子供が正しく学んでいるから(貧しさや不便さは)問題ない」と言った。内戦が本格化した92年、22歳で「イスラム教による秩序回復」を訴えていた神学生集団(タリバン)に入った。当時の軍閥勢力間による殺し合いに憤りを感じたためだったという。

 復活したタリバンは約3年前から、全国34州のほとんどに独自の行政組織を編成してきた。「知事」や「地方行政長」に加え「イスラム法廷」も置いた。米軍がタリバン知事らを拘束、殺害しても、「後任」はすぐに指名される。統治機構の二重構造化が進んでいる。

 タリバンに対するカルザイ政権側からの和解の呼びかけについては、男は「(最高指導者で行方の分からない)オマル師は首相の座などを欲しがる人物ではない」と指摘し、政権とタリバンが連立する可能性を一蹴した。

 タリバンの当面の目標は「駐留外国軍の追放」だ。「米軍は、我々の銃撃に空爆で報復し、村を戦車でじゅうりんした。女子供も抑圧しており許せない」と言った。「小型爆弾」や「複数爆弾の連続爆破法」をタリバン独自で開発したと自慢した。「タリバンも民間人を犠牲にしている」と指摘すると、「市民の巻き添えは戦争の常識だ」とにらみ返してきた。

 部屋にあったテレビが映すコント番組を見て、男はたわいなく笑った。旧タリバン政権はテレビを禁じたが、今は規律が緩和されている。

 男は「再びタリバンが天下を取っても、厳しい体制には戻らない。公開処刑も行わない」という。恐怖体制を敷かずとも、人々の支持を得る自信があるためだろうか。

 後日、男と同じ州の出身者で、カブールに住むタリバンとは関係のない人物に会った。「故郷では、外国軍が出ている日中は別だが、彼らが基地に戻る夜は完全なタリバン支配になる。外国人が首都から出るのは危険だ」と警告した。

 首都なら安全なのだろうか。取材に応じた男のように、タリバンは一般住民としてカブールを自由に出入りしている。【カブールで杉尾直哉】

毎日新聞 2010年11月30日 東京朝刊


● カブールの日常:タリバン政権崩壊9年/下 根付かぬ「アフガン人」意識
 ◇民族間、憎しみ消えず
 カブール市内では、鼻筋が通り、どこか憂い顔の男の写真が街頭や飲食店に多数掲げてある。反タリバンの「北部同盟」部隊を率い、01年9月に自爆テロで暗殺された軍閥指導者マスード司令官の遺影だ。タリバン政権時代に禁じられていたたこ揚げで、市民が集うナディル・ハーン丘には約15メートルの巨大なパネルが立ち、遠くからでもよく見える。

 カルザイ大統領の写真がほとんどないのと対照的だ。死後9年経た今もなぜ人々の支持を得ているか。司令官の通訳をしていたサレフ前国家保安局長官(38)は「どんな環境でも慌てず、勇気ある人だった。反タリバン、反過激主義の大義を掲げ、その使命は今も完結していないからだ」と話した。

 しかし、カブール西部には、司令官の写真がまったくない地区がある。顔が日本人に似たハザラ人の居住区だ。ここでは、イスラム教シーア派政党を率い、96年にタリバンに殺害されたマザリ氏の写真が掲げてある。

 アフガンの民族構成はパシュトゥン人が5割弱、タジク人25%、ハザラ人10%など。タリバンはパシュトゥン人が多い。マスード司令官やその支持者の多くはタジク人だ。ハザラ人は「どちらからも差別されてきた」と訴える。カブールの居住区は舗装が全くされず、地区全体が濃霧に包まれたように見えるほど土ぼこりがひどい。

 内戦時代にマスード部隊は、この地区を見下ろす丘の上から容赦なく砲撃を繰り返した。

 ハザラ人学生のホサインさん(19)は「我々の多くが家族や知人の誰かをマスードに殺されている。憎しみは消えない」と話した。

 今年9月、マスード司令官の命日に合わせて遺影を掲げ、銃を振りかざしたタジク人の車列がこの地区に入って来た。挑発に怒ったハザラ人たちが多数押し寄せ、一触即発となったという。偶然居合わせたタジク人記者(27)は、「内戦やタリバン時代は終わったのに、なぜ皆『アフガン人』としての意識をもてないのか」といら立ちながら話した。

 カブールの北約100キロ。マスード司令官が拠点にしていたパンジシール地方の丘の上には、遺体を安置した真新しい「マスード廟(びょう)」が建っている。遺影だらけの集落で雑貨店を営むナジムさん(75)は、「司令官が生きていれば、この国は独立を守り、絶対に40カ国以上の外国軍駐留を許さなかった」と話した。そして、「内戦は続いていただろうが」と付け加えた。【カブール、パンジシールで杉尾直哉】

毎日新聞 2010年12月1日 東京朝刊

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