2010年12月17日金曜日

『カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政』 1

『カリフ国家の諸制度
― 統治と行政』


発行:解放党



増補版


2005/1426年



P.O.Box 135190
Dr al-Ummah, Beirut, Lebanon

目次

増補版前書き
序文

カリフ国家の諸制度 ― 統治と行政

第1章:カリフ
称号
カリフの資格条件
就位の資格条件
カリフ任命手続
カリフ任命と忠誠誓約の具体的手順
カリフ臨時代行
候補者の絞込み
忠誠誓約の形態
カリフの唯一性
カリフの権限
カリフ立法のイスラーム法による制限
カリフ国家 非神政人治国家
カリフの任期
カリフの罷免
カリフ制樹立猶予期間

第2章:カリフ補佐(全権大臣)
全権補佐の資格条件
全権補佐の職務
全権補佐の任命と罷免

第3章:執行大臣

第4章:地方総督
カリフの地方総督監督義務

第5章:ジハード司令 - 軍部(軍隊)
ジハード
(1)軍隊
(2)国内治安
(3)軍需産業
(4)国際関係 
軍隊の分類
軍司令官としてのカリフ

第6章:国内治安
 治安部門の任務

第7章:外交

第8章:工業

第9章:司法
裁判官の分類
裁判官の資格条件
裁判官の任命
裁判官の給与
法廷の構成
風紀監督官
風紀監督官の権限
行政不正裁判官
行政不正裁判官御任命と罷免
カリフ国家樹立以前の契約、社会行為、裁判

第10章:行政機関(福祉)
非統治的行政機構
福祉政策
行政機構官吏資格者

第11章:国庫

第12章:情宣
情報メディアの許認可
情宣国家政策

第13章:国民議会(協議と査問)
協議の権利
査問の義務
国民議会議員選挙
国民議会選挙の方法
国民議会の議員資格
国民議会の議員任期
国民議会議員の権限
自由な発言、発議権
付録
旗章、旗印
国歌


増補版 前書き

アッラーに称えあれ。アッラーフの使徒ムハンマドとその御家族、御一統、そして彼に従う者に祝福と平安あれ。

「アッラーは、汝らの中で信仰し、善行を為す者たちに、約束し給うた。彼ら以前の者たちに継がせ給うたように、彼らに大地を継がせ給い、また彼らのために嘉し給う宗教を彼らに堅固なものとし給い、恐怖の後で、代わりに安心を授け給う、と。彼らは我(アッラー)を崇め、我に何物も並置しない。しかしその後に不信仰に陥る者は、不義の輩である。」(クルアーン24章55節)
またアッラーの使徒は言われた。
「おまえたちの中に預言者制はアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで尚武の王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。次いで専制王制が現れる。それはアッラーが望まれる間は続くが、彼は望まれる時にそれを取り上げられる。そして預言者職に倣うカリフ制が現れる。」
こう語り終えてアッラーの使徒は黙された。(アフマド・ブン・ハンバル が収録するハディースより)

我々、解放党は、アッラーの御約束とアッラーの使徒ムハンマドの吉報の予言を信じ、ウンマ(ムスリム共同体)と協働し、カリフ制の再興のために献身する。
我々は、カリフの兵士となりその旗を掲げ、勝利を重ね、カリフ制の樹立に成功するようにと、その実現を確信しつつ、アッラーに祈る。アッラーにはそれはいとも容易いこと。
我々は本書では、明瞭で分かり易く実践的な表現で、カリフ国家の統治と行政の制度について、なによりも心から納得できて胸に響くような厳密な論証を行うようにと心がけた。 
我々が本書を書くに至ったのは、今日のイスラーム世界に存在する多くの政治体制が、形式においても実質においても、本来のイスラームの統治制度とかけ離れていることによる。
実質については、現行の政治体制は全て、クルアーンとその使徒のスンナ(言行)に基礎をおかず、それを指針としておらず、むしろイスラーム的統治とは真逆の政体であることは、ムスリムたちの誰の目にも明らかである。それ誰にも異議がない明々白々たる事実である。但し、イスラームの統治体制が、制度面においては現行の(西欧の国民国家の)統治制度と大差なく、現在の人定法の統治制度と同様な構成と権限を有する内閣や省庁といったものがあっても構わない、と考える誤解の余地はあるかもしれない。
そこで我々は、カリフ国家の統治制度について、アッラーの御心により将来その実現を見る前に、その統治機構の姿を脳裏に思い描くことが出来るようにと、それを詳述することにした。またカリフ国家の旗章、旗印、将来発布するカリフ選挙法、忠誠誓約の形式、カリフが捕虜になった際の解放が見込まれる場合とそうでない場合の臨時代行の権限、地方警察の執行と行政の組織、治安部門の女性警官の任命、地方議会、国民議会の選挙法、国歌など、原著になかった必要事項を該当箇所に書き加えた。
アッラーが我々の勝利を早められ、我々の共同体が人類最善の共同体となり、カリフ国家が、世界最高の国家となり、世界の隅々にまで善と正義を広めることができるよう、我々に恩寵を垂れ、栄光と恵みを授け給いますように。そしてその時、信仰者はアッラーの神佑を喜び、アッラーは信ずる民の心を癒し給うでしょう。最後に我々は祈る。万世の主アッラーにこそ賞賛あれ。


序.
 カリフ国家の機構の詳細について論ずる前に、以下の点を先ず明らかにしておく必要がある。

(1):万世の主アッラーが義務として課されたイスラームの統治制度はカリフ制である。

 この制度においては、アッラーの啓示に則る統治を行うために、アッラーの啓典クルアーンとその使徒ムハンマドのスンナ(言行)への忠誠の誓いに基づき、カリフが擁立されるのである。クルアーンとスンナと預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスの中に、それを示す典拠は無数に存在する。
 クルアーンでは、至高なるアッラーは預言者ムハンマドに訓戒し以下のように述べられている。
「アッラーが啓示されたものによって彼らの間を治めよ。彼らの欲望に従い、汝のもとに齎された真理から逸れてはならない。」(クルアーン5章48節)
「アッラーが啓示されたものによって彼らの間を治め、彼らの欲望に従ってはならない。アッラーがお前に啓示されたものの一部から逸らせるように彼らが汝を誘惑することを警戒せよ。」(クルアーン5章49節)
 彼らの間をアッラーの啓示に則って治めよ、との使徒ムハンマドへの訓戒は、彼のムスリム共同体への訓戒であり、それは、使徒ムハンマドの逝去後にアッラーの啓示に則って治める為政者を擁立せよ、との意味なのである。ここでの訓告の主題は義務を課すことであり、訓告の命令法は法理学の教える通り、厳命を示す文脈であるから、それは厳命を意味するのである。そしてこの「使徒ムハンマドの逝去後にアッラーの啓示に則って治める為政者」がカリフであり、このような統治制度がカリフ制なのである。他方、法定刑などの全ての法規の執行は義務であるが、為政者が存在しなければその執行が不可能である。そして義務の遂行に不可欠な行為はそれ自体もまた義務である。つまりイスラーム法を施行する為政者の擁立もまた義務なのである。そしてこのような為政者がカリフであり、この統治制度がカリフ制度なのである。
 スンナについては、預言者の孫弟子のナーフィウは預言者の直弟子アブドッラー・ブン・ウマルが彼に以下のように語ったと伝えている。「私はアッラーの使徒が『服従から手を引いた者は、最後の審判の日にアッラーにまみえるが、彼には弁明の余地はない。忠誠誓約をせずに死んだ者は(イスラーム到来以前の)無明時代の死に方をしたことになる』と言われるのを聞いた」(ムスリム が収録するハディース)
預言者は全てのムスリムに忠誠誓約を立てるように命じ、忠誠誓約をせずに死んだ者を無明時代の死に方をしたのだと言われたが、アッラーの使徒の逝去後には、忠誠誓約は、カリフ以外の誰にも与えられることはない。それゆえ全てのムスリムにカリフに忠誠誓約をすることを義務付けるこのハディース(預言者ムハンマドの言行録)は、つまりその前提として全てのムスリムの忠誠誓約を受けるに相応しいカリフの存在をも義務付けているのである。
またムスリムが伝えるところでは、アブー・ハーズィムは「私はアブー・フライラに5年間仕えたが彼はいつも預言者が以下のように言われた」と語っていた。
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給うであろう。」
これらのハディースには、ムスリムを統治する者がカリフであるとの言明があるが、預言者がカリフへの服従と、カリフ位に異を唱える者たちの討伐を命じられている以上、その言明はカリフ擁立を求めている、つまりカリフ擁立の命令であり、カリフへの反逆者の討伐によるカリフの守護の命令なのである。
またムスリムは預言者が「イマーム(カリフ)に忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ。」と言われたと伝えている。カリフへの服従の命令は、カリフ擁立の命令を含意し、カリフに背く者の討伐の命令は、カリフは常に唯独りでなくてはならないとの厳命を文脈的に示しているのである。
また預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスについては、彼らはアッラーの逝去後にカリフを擁立する必要があることに合意し、先ずアブー・バクル(初代カリフ在位632-634年)を、次いでウマル(第2代カリフ在位634-644年)、次いでウスマーン(第3代カリフ在位644-656年)を、それぞれの死後にカリフとして擁立することで合意した。そして死体は死後直ぐに埋葬することが義務であるにもかかわらず、預言者が亡くなった後、直弟子たちが彼のカリフ(後継者)擁立に専心し、彼の埋葬を遅らせたことも、カリフ擁立についての彼らのコンセンサスを裏付けている。
また預言者の直弟子たちは、彼らの生涯にわたって、カリフの擁立が義務であることでは合意していた。彼らは誰がカリフに選ばれるべきかについては意見が対立していたが、アッラーの逝去に際しても、正統カリフのどの一人の死に際しても、カリフの擁立義務自体に関しては誰も反対する者はいなかった。預言者の直弟子たちのコンセンサスは、カリフ擁立の義務の明白かつ強力な証拠なのである。

(2)イスラームの統治制度(カリフ制)は、知られている世界のどの統治制度とも異なっている。

それは立脚する原理についても、諸事を処理する指針となる思想、概念、基準によっても、施行し適用する憲法や法律によっても、またイスラーム国家が成り立ち、世界の全ての統治体制と相違するその体制の形態においても、異なっているのである。
 それは王制ではない。
イスラームは王制を認めず、カリフ制は王制に似てもいない。なぜなら王制では、王子が世襲によって王になり、ウンマ(国民)はそれに関与しないからである。他方、カリフ制においては、世襲はなく、ウンマの忠誠誓約が、カリフ就位の手順なのである。また王制は、王にのみ、彼以外の臣下の誰にもない大権、特権を認めている。また一部の王制では、王を法律の上に置き、ウンマ(国民)の象徴としており、王は君臨するが統治はしない。また別の王制では、王は自らの欲望のままに土地と臣民を処分し、君臨し、統治し、自分がいかなる悪行、不正を行おうとも、裁かれることを拒否する。
他方、カリフ制は、王制のような臣民の上に立ついかなる特権もカリフに認めず、裁判においても国民の一人と異なるような特権を与えない。またカリフは、王制のような意味において、国民の象徴であるわけでもない。カリフは、ウンマ(国民)に対してアッラーの聖法を施行するために、ウンマ(国民)が自ら選び忠誠を誓った統治と権力におけるウンマ(国民)の代行者に過ぎず、その全ての行為、裁定、国民の諸事、福利の処理において、イスラームの法規定によって束縛されているのである。
またカリフ制は帝国制でもない。
帝国制はイスラームと異なること甚だしい。イスラームが治める遠隔地方は、いかにその民族が多様で違っていようとも、唯一の中心に帰一するからである。イスラームは諸遠隔地方を帝国制によって統治するのではなく、逆に帝国制の反対の原理によって治めるのである。なぜならば帝国制は、帝国の遠隔諸地方における異なる民族を平等に扱わず、統治、富、経済において帝国の中心に特権を付与するからである。
イスラームの統治の仕方は、国家のどこにあっても被統治者たちを平等に扱い、民族主義を否定し、市民権を有する非ムスリムにも、イスラーム法に則って、臣民の権利と義務を与える。非ムスリムもムスリムが享有するのと同じく権利において公正に扱われ、またムスリムに課されるのと同じく義務においても公正に裁かれる。更に言うならば、裁判においてイスラームは、属する宗教・宗派が何であるかにかかわらず、たとえムスリムであっても、市民の誰にも他の者と違う特権を認めない。この平等性においてカリフ制は帝国制と異なり、遠隔諸地方を植民地化せず、搾取の場、中央だけに収益をもたらす財源とはしないのである。カリフ制は、いかに中央からの距離が離れていようとも、また住民の民族構成が多様であろうとも、地域の全体を単一の一体、全ての地域をカリフ国家の一部とみなし、全地域の住民に、中央と他の地域の住民と同じ権利を与え、全ての地域において、統治権、統治制度、立法権が等しく行き渡るようにするのである。
またカリフ制は連邦制でもない。
連邦制では、外交など共通の政策のみにおいて統一されている他は、諸地域が政治的自治権を有するが、カリフ制はあくまでも一体である。もしイスラーム国家の首都がエジプトのファイユーム地方であればカイロであるように、東部であれば中央アジアのホラサーン、西部であればモロッコのマラケシュとなるが、どの地域に対しても、国家財政、予算は単一で、地域にかかわりなくカリフ国家全域の住民全ての福利を考慮して支出される。たとえばある地域が資源と生産が需要の倍あったとしても、その地域には資源と生産高に応じてではなく需要に応じて財政支出される。つまりある地域の資源と生産が需要に追いつかなくても、それを考える必要はなく、その地域の資源と生産が需要をカヴァーするかしないかにかかわらず、国家の一般会計からその需要は賄われるのである。
またカリフ制は共和制でもない。
共和制は、そもそも王制の暴政に対する反動として、つまり王が自分の意のままに恣意的に土地と人を支配し、自分の望み通りに法を制定する主権、権力を有する暴政に対する反動として成立した。共和制の諸政体が生まれると、民主制と呼ばれるものでは、主権と権力は臣民に移管され、法律を定め、許可し、禁じ、善と悪を決めるのは臣民となる。統治権は、大統領(共和)制においては大統領とその大臣たちの手中に、議院内閣(共和)制では議会の手中にある。(王が統治権を剥奪され「君臨するが統治しない」立憲君主制においても同様に統治権は議会にある)
他方、イスラームにおいては、立法権は臣民には属さない。立法権はただアッラーのみに属し、アッラーを差し置いては誰にも何かを許し、禁ずる権利はない。人間に立法権を認めることは、イスラームにおいては重大な犯罪なのである。
「彼らはアッラーを差し置いて、彼らの中の律法学者や修道士たちを主と崇める」(9章31節)の聖句が啓示された時、アッラーの使徒は、この句を釈義して「彼ら(ユダヤ教徒、キリスト教徒)は人々に掟を定め、許されたもの、禁じられたものを決め、人々は彼らに服従していたのである」と説明された。 使徒が明らかにされた通り、これが「律法学者や修道士を主と崇めること」の聖句の意味であり、それはアッラーを差し置いて、許されたこと、禁じられたことを人間が定めることの罪の深さを示している。
またイスラームの統治行政は内閣を通じて行われるわけではない。カリフ制では人々の公益が集権化された単一の行政機構によって処理されるので、内閣制のように各大臣に他の大臣と区別された固有の職務、職権、予算があって、公益に関する一つの問題に関わる多くの官庁の管轄事項が重複し、煩雑を極め時間のかかる手続を経なくてはある省から別の省への権限、予算の移行ができず、人々の福祉の実現に困難をきたすようなことはない。
 共和制においては、統治行政は各官庁に分権されており、集団体制で統治行政権を有する内閣がそれを集約する。他方、イスラームにおいては、(民主制の形態で)集合体として統治行政権を有する内閣は存在せず、カリフこそが、アッラーの啓典クルアーンと使徒のスンナ(言行)に則って国民(ウンマ)を治めるという条件で国民(ウンマ)が忠誠を誓った為政者であり、そのカリフが自分を助けてその様々な職務を分担する補佐(全権全権補佐)を任命する。これが語源的な意味での大臣(wuzar)、つまり、カリフが自分のために任命したカリフの補佐役(muwin)なのである。
イスラームにおける統治制度は、「臣民が立法権を有し、許可し、禁じ、善と悪を決め、自由の名の下にイスラーム法の規定に拘束されない」という民主制の真の意味においては、民主制ではない。ムスリムがこの真の意味での民主制を決して受け入れないことを不信仰の徒たちは理解している。それゆえ植民地主義の不信仰の国々(今日では特にアメリカが)は、民主制が為政者の選挙の手段であるかのごとくにムスリムたちを欺き、ムスリムの国々に民主制を輸出しようと謀っている。彼らは為政者の選挙に話を絞り、民主制の基礎は為政者の選挙であるかのような誤解を招く偽りのイメージをムスリムたちに抱かせ、ムスリムたちの民主制に対する認識を誤らせようとしている。なぜならムスリムの国々は、暴虐、不正、言論弾圧、抑圧(そして独裁)に苦しめられており、それはそれらの政権が王制を名乗っていようと共和制を名乗っていようと変わらないからである。ムスリムの国々はこうした不正と弾圧にあまりにも苦しめられているので、(独裁者から解放され、選挙で自分たちの支配者を選ぶことさえできるなら、どんな政体にでも飛びつくようになっているので)不信仰者たちは、為政者の選挙だということで民主制をムスリムの国々密輸するのは容易なのである。その際、彼らは民主制の本質であるところの「立法、許可、禁止が人間の主であるアッラーではなく、人間の権利となる」という事実を隠蔽しており、そのため、一部の者たちは(イスラーム主義者、そればかりか彼らの中の伝統的イスラーム学者までが)善意から、あるいは知っていながら確信犯として、この欺瞞の民主制を受け入れているのである。
 もし彼らに「民主制とは何か」と尋ねれば、彼らは、「民主主義は為政者の選挙である」と考えて、「それではイスラームでも許されている」と答えるであろう。悪意の確信犯たちは、民主制の創始者たちが意図した真の意味を故意に隠蔽して話を逸らす。つまり、民主制とは人民主権であり。人民が多数決で望みのままに法を定め、許可し、禁じ、善と悪を定めることであり、個人は自分自身の行為については「自由」であり、民主主義と自由の名の下に、酒を飲もうと、姦通を犯そうと、背教しようと、聖なるものを誹謗中傷しようと、望みのままに振舞ってよいということなのである。これが民主制であり、これがその真相、意味するところ、本質なのである。イスラームを信ずるムスリムが、「民主制は許される」、あるいは「民主制はイスラームに属する」などとどうして言うことができようか?
 国民(ウンマ)による為政者の選任、つまりカリフの選任について言えば、それはクルアーンとスンナの明文が定めていることなのである。イスラームにおいて主権は聖法(shar)に属するが、人々によるカリフに対する忠誠誓約が、カリフ就位の前提条件なのであり、かつて世界が独裁者の暗黒と王の専制の下に暮らしていた時代に、イスラームにおいてはカリフの選挙が実践されていたのである。
アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリー(第4代カリフ在位656-666年)の正統カリフの選任の方法について研究した者は、「解き結ぶ者(有力者たち)」とムスリムの代表者たちのうちの一人がムスリムたちに服従が義務となるカリフになるために、彼らによる正統カリフたちに対する忠誠誓約がどのように締結されたかを明瞭に知ることが出来る。ムスリムの代表たち(それは首都マディーナの住民である)の見解を調べることを任されたアブドッラフマーン・ブン・アウフは、彼らの間を回り、あの家、この家と訪ね、誰彼となく聞き回り、男性にも女性にも、カリフの候補者の中から誰を選ぶかを質問した結果、最終的に人々の意見はウスマーンをカリフに選ぶことに落ち着き、彼に対して忠誠の誓いが締結されたのであった。
 要約すると、民主制は不信仰の政体であるが、それは為政者が選挙で選ばれるからではない。それは本質的な問題ではないのである。そうではなく民主制の本質は立法権を万世の主アッラーから奪い人間に与えることなのである。アッラーは言われる。「統治権はアッラーにのみ属する」(クルアーン12章40節、67節)また言われる。「いや、汝(預言者ムハンマド)の主にかけて、彼らは自分たちの間で生じた紛争において汝を調停者とし、汝の裁定に対して心中に不満を抱かず、全てを委ねるのでない限り、信仰したことにはならない」(クルアーン4章65節)
立法権がアッラーのみに属することを示す典拠は数多く知られている。このことは、民主制が認めるところ「個人の自由」を別にしての話である。民主制の「個人の自由」により、男と女は、イスラーム法上許されているか禁じられているかを問題とすることなく、好きなことができるのである。またいかなる束縛もない背教と改宗の宗教的自由も同様である。そして更に様々な手段による強者による弱者の搾取を許す所有権の自由があり、富める者はますます豊かになり、貧しい者はますます困窮していくのである。思想の自由も同様で、それは真理の言葉についてではなく、ウンマ(ムスリム共同体)が神聖とみなすものに敵対する言論の自由でしかない。彼らは思想の自由の名によってイスラームを侮辱する者を優れた思想家とみなし、多くの賞を授けさえするのである。
それゆえ上述の通りで、イスラームの統治制度(カリフ制)は、王制でもなく、帝国制でもなく、連邦制でもなく、共和制でもなく、民主制でもないのである。

(3)カリフ国家の制度は、外見上、一面的には類似点があるとしても、現在知られている他のいかなる政治体制とも異なっている。

カリフ国家の制度は、アッラーの使徒がマディーナに移住し、そこにイスラーム国家を樹立した後で立ち上げられ、彼の逝去後、正統カリフたちが、それを踏襲した制度を引き継いでいる。
 それについて書かれたクルアーンとスンナの明文を詳細に検討すれば、カリフ国家の統治と行政の機構は、およそ以下のようなものであることが分かる。

カリフ - 補佐(全権大臣) - 執行大臣 - 地方総督 - ジハード司令官 - 国内治安 - 外交 - 工業 - 司法 - 行政機構(福祉) - 国庫 - 情宣 国民議会(協議と査問)

次章以下では、アッラーが我々を勝利せしめ、正統カリフ制の再興を成功させ、イスラームとムスリムに栄光を授け、不信仰と不信仰の徒を卑しめ、全世界に善が広まるように、祈りつつ、これらのカリフ国家の制度の詳細と、その典拠について述べていきたい。
「アッラーは彼の命令を貫徹し給う。アッラーは万物に一定の分を定められた。」(クルアーン65章3節)
 アッラーこそ援けを求められるべき御方であらせられます。彼にのみこの身をお任せいたします。

1425年ズルヒッジャ月14日/2005年1月24日


カリフ国家の諸制度(統治と行政)


第1章:カリフ

 カリフは統治と権力、イスラーム聖法の諸法規の執行におけるウンマ(ムスリム共同体)の代行者である。というのは、イスラームは統治と権力をウンマのものとし、アッラーはウンマに聖法の法規の全てを執行することを義務付けられたが、ウンマの代理としてそれを代行する者が、ウンマの代わりを務めるからである。
 そしてムスリムがカリフを擁立するのであるから、実際には、カリフは、統治と権力、イスラーム聖法の諸法規の執行におけるウンマの代行者なのである。カリフはウンマが忠誠を誓うことによってしかカリフになることはできないので、彼のカリフ位に対するその忠誠誓約がカリフをウンマの代行者とし、この忠誠誓約によるカリフ位の締結がカリフに権力を付与し、ウンマにカリフへの服従を義務付けるのである。
 ムスリムの諸事を司る者は、ウンマの中の有力者たち「解き結ぶ者」が、カリフ就位後にイスラーム聖法を執行するとの条件で、カリフの資格を満たす者を納得して選んだ上でその者とカリフ位締結の忠誠誓約を交わすことによって初めてカリフとなるのである。

称号
 彼を指す称号は、カリフ(アラビア語の原音では「ハリーファ(khalfa)」)、イマーム、あるいはアミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令)であり、これらの称号は、真正なハディースや預言者ムハンマドの直弟子たちのコンセンサスの中で用いられており、正統カリフたちはこれらの称号で呼ばれたのである。
以下の預言者のハディースに、イスラームにおいて聖法を執行する為政者の称号が述べられているが、それがカリフ、あるいはイマームなのである。
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は彼に服従せよ」
「お前たちのイマームで最善の者とは、お前たちがその者を愛し、またその者もお前たちを愛し、お前たちがその者に祝福を祈り、その者もお前たちのために祝福を祈るようなイマームである」
 アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)の称号については、最も信頼できるのは、以下の伝承である。

 ウマル・ブン・アブドルアズィーズ(ウマイヤ朝第8代カリフ在位717-720年)がアブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマに「初代カリフアブー・バクルの治世には、『アッラーの使徒のカリフ(後継者)より・・・』と書簡には書かれており、次いでウマルは初めは『アブー・バクルのカリフ・・・』と書いていた。それでは誰が最初に『アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)』と書いたのか?」と尋ねた。
そこでアブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマは答えた。
「最初のマッカから亡命した女性信徒の一人であったアル=シファーゥ が私に語ったところでは、第2代カリフウマル・ブン・アル=ハッターブがイラク総督に自分の許にイラクとその住民について尋ねたいので二人の強健な使者を送るようにとの書簡を送った。
そこでイラク総督はラビード・ブン・ラビーアとアディー・ブン・ハーティムを送った。二人がマディーナに到着すると二人はラクダをモスクの中庭に停めてモスクに入ったが、そこでアムル・ブン・アル=アースに出会ったので、『アムルよ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)に取り次いでください』と言った。
アムルは『お前たちは、彼の名称を正しく呼んだ。まさに彼は<司令官(アミール)>で、我々は<信徒(ムウミヌーン)>だ。』と言い、ウマルの許に駆けつけ、『貴方に平安あれ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)よ』と呼びかけた。
そこでウマルは尋ねた『イブン・アル=アースよ、その名前は何か?我が主にかけて、お前の言ったことを説明せよ』
アムルは答えた。「ラビード・ブン・ラビーアとアディー・ブン・ハーティムがマディーナにやって来てはラクダをモスクの中庭に停めて私のところにやって来て、『アムルよ、アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)に取り次いでください』と私に頼んだのです。アッラーにかけて、彼らは、あなたの名称を正しく呼びました。まさに私たちは信徒『(ムウミヌーン)』であなたは『私たちの司令官(アミール)』ですから。
(アブー・バクル・スライマーン・ブン・アビー・ハスマは)続けて言った。「その時から彼は書簡にそう署名するようになりました。」
こうして預言者の直弟子たちの時代、およびその後も、カリフをその称号「アミール・アル=ムウミニーン(信徒の司令官)」で呼ぶことが定着したのである。

カリフの資格条件
カリフの有資格者となり、カリフ就位の忠誠誓約が締結されるためには、カリフは7項の資格条件を満たしていなくてはならない。この7項の資格条件は就位締結のための条件であり、そのうちの一項でも欠けていればカリフ位は成立しない。
就位締結条件
第1項:ムスリムであること
不信仰者には、カリフ位は無条件に無効であり、服従は義務ではない。なぜなら至高なるアッラーが「アッラーは不信仰者にムスリムの上に決して道を設け給わない」(4章141節)と言われているが、統治こそ、統治者が被統治者の上に立つ最も強い『道』であり、また未完了否定詞『決して・・・ない』という表現は、カリフであれ、それ以下の官職であれ、不信仰者がムスリムを支配し治めることは将来に亘って決してないとの決定的な禁止を示しているのである。不信仰者にムスリムの上に道をつけることをアッラーが禁じ給うた、ということは、ムスリムに対して、ムスリムが不信仰者を彼らムスリムの統治者に任ずることを禁じ給うた、ということを意味しているのである。
またカリフは「権威(wal al-amr)」であるが、アッラーは「信仰する者よ、アッラーに従い、使徒と汝らのうちの権威者に従え」(4章59節)「安全、あるいは危険な事柄が彼らにもたらされた時には彼らはそれを言いふらした。もし彼らがそれを使徒と彼らの中の権威者の許に持ち込んでいたならば」(4章83節)、ムスリムの権威がムスリムであることを条件クルアーンの中では「権威(ul al-amr)」の語は、彼らがムスリムであるような文脈でしか用いられない。それは「権威」はムスリムであることが条件であることを示しているのである。そしてカリフは彼自身が「権威」であり、補佐、官吏、総督などの権威者の任命者でもある以上、ムスリムであることが条件となるのである。
第2項:男性であること
カリフが女性であることは許されない、つまりカリフは男でなければならず、「ペルシャ人がホスローの娘を女王に選んだとの報を聞いたアッラーの使徒は『女性に自分たちの政治を任せる民は栄えることはない』と言われた」とのハディース により、女性のカリフ位は有効ではない。女性による統治の政務、とはカリフとその下の統治にかかわる公職のことを指している。なぜならこのハディースのテーマはホスローの娘の女王就位であるが、それはホスロー(ホスロー2世、在位591-628年)の娘の就位のケースだけに限られた話ではなく、ハディースが述べる統治を特に扱ったテーマであり、万事に当てはまる一般論でもなく、統治のテーマの他には適用されないが、それは裁判、諮問議会、行政監査、為政者の選挙は含んでいない。これらは全て女性にも参与が明白に許されているのである。
第3項:成人であること
 アッラーの使徒は「3種の者からは筆が上げられる。(悪行が火獄行きの帳簿に記されない)すなわち、子供は成人するまで、眠っている者は目覚めるまで、痴呆の者は癒えるまで。」と言われているからである 。また別のヴァージョンの文言では「3種の者からは筆が上げられる。理性を失った狂人は正気に返るまで。眠っている者は目覚めるまで、子供は精通があるまで。」となっている。「筆が上げられる者」とは、イスラーム法上、責任能力者でなく、自分自身の問題を自分で処理しても有効とならないため、カリフ、あるいはそれより下の統治の役務に就いても有効ではないのである。なぜなら彼には行為能力がないからである。
またアル=ブハーリーの伝えるハディース「ザイナブ・ビント・フマイドが、『アッラーの使徒よ、息子と忠誠誓約を交わしてください』と頼んだが、預言者は『彼はまだ子供だ』と言われ、彼の頭を撫で、彼のために祈られた」 もまた子供がカリフとなることが許されないことの典拠となる。なぜなら子供の忠誠誓約が有効とみなされず、他人に対してカリフの忠誠誓約ができないなら、なおさら自分自身がカリフになることは許されないからである。
 第4項:理性を備えているこ。
 「3種の者からは筆が上げられる。・・・理性を失った狂人は正気に返るまで。」とのアッラーの使徒の言葉により、狂人のカリフ位は有効ではない。「筆が上げられた者」は責任能力者でない。なぜなら理性こそ義務付加の事由、法律行為の有効性の条件だからである。ところがカリフは統治の法律行為を行い、イスラーム聖法上の諸義務を果たさなければならない以上、狂人では務まらないのである。なぜなら狂人は自分自身の事柄においてすら法律行為を有効に行うことができない以上、人々の諸事に対する彼の法律行為はなおさら有効でないのである。
 第5項:公正であること
 悪人(のカリフ位)は有効ではない。正義は、カリフ位締結と継続の必要資格条件である。なぜならアッラーは「汝らの中の2人の義人を証人に立てよ」(65章2節)と言われ、証人に義人であることを条件として課されているが、カリフは証人よりも重要であるので、正義が証人の条件となるなら、カリフには尚更の条件として課されるのである。
 第6項:自由人であること
 なぜなら奴隷は主人の所有物であり、自分自身のための法律行為を行うことができない以上、他人のために法律行為を行うこと、人々の上に立つ権威を持つことはなおさら出来ないからである。
 第7項:有能であること
 カリフの職責を果たしうる能力の持ち主であること。なぜならそれは忠誠誓約が要請するところだからである。とういうのは、無能であれば、忠誠を誓ったクルアーンとスンナに則って公務を処理することができないからである。有能な人材の中から能力ある者がカリフとなるように、行政不正裁判所(makamah al-Malim)が無能力の審査を行わなければならない。
 オプショナル条件
 上記が、カリフ位締結の資格条件であった。この7条件以外の条件は、たとえクルアーンとスンナの明文の典拠が真正であったとしてもオプショナル条件であるか、あるいは真正な明文の定める規定となるだけであり、どれもカリフ位締結の必要条件ではない。なぜならカリフ位締結の必要条件であるためには、それが必要条件であることを示す典拠が、文脈的に義務であることを明示する決定的要請命令を含意していなければならないからである。そうした決定的要請命令を示す典拠がなければ、その条件はオプショナル条件であり、カリフ位締結の必要条件ではないが、上記の7条件以外には、決定的要請命令を示す典拠は存在しないため、この7条件のみが、締結の必要条件なのである。クライシュ族の出自や、独自裁量の許されるイスラーム学識や、武器の操作などの要請決定的でない典拠しかないそれ以外の条件は、言うならばオプショナル条件に過ぎないのである。
 カリフ擁立の手続き
 イスラーム聖法がウンマ(ムスリム共同体)にカリフの擁立を義務付けた時、同時にカリフの擁立において採るべき手続きも定めている。その手続きはクルアーンとスンナと預言者の直弟子たちのコンセンサスで確定しているのであり、それは忠誠誓約なのである。カリフの擁立は、クルアーンとアッラーの使徒のスンナに則って、ムスリムたちが彼に対して忠誠を誓うことで成立する。「ムスリムたち」とは、カリフ制が存在している場合には先代のカリフの治めた民であり、カリフ制が不在である場合にはカリフ制が樹立される地の住人である。
 統治者擁立手続きが忠誠誓約であることは、ムスリムの使徒に対する忠誠誓約と、イマームに対する忠誠誓約を使徒が我々に命じられたことによって定められている。ムスリムの使徒に対する忠誠誓約は、預言者としての使徒に対する忠誠誓約ではなく、あくまでも彼の統治に対する忠誠誓約であった。つまりそれは行為に関する忠誠誓約であり、信仰における忠誠誓約ではなかったのである。彼は統治者として、忠誠を誓われたのであり、預言者、使徒としてではない。なぜなら彼が預言者であること、使徒であることを認めるのは、信仰であり、忠誠誓約ではないからである。忠誠誓約は、国家元首としての彼に対して以外にはありえない。
忠誠誓約はクルアーンとスンナの中で述べられている。至高なるアッラーは言われた。「預言者よ、おまえの許に信仰する女が来て、アッラーになにものをも同位とせず、盗みをせず、姦通をせず、子供たちを殺さず、手と足の間で捏造した虚偽をもたらさず、善においておまえたちが背かないことをおまえに誓約したなら、彼女らと誓約せよ・・・」(60章12節)また言われた。「まことにお前に忠誠を誓った者たちは、アッラーに忠誠を誓ったのに他ならない。アッラーの御手は彼らの上にある」(48章10節)
またアル=ブハーリーはウバーダ・ブン・アル=サーミトが「我々はアッラーの使徒に対して、好むと好まざるとに関わらぬ聴従、権威者の命令に背かないこと、どこにいようとも真理を行い、語ること、アッラーに関して謗る者の非難を恐れぬことで、忠誠を誓った」と言ったと伝えている。
またムスリムは以下のハディースを伝えている。
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は彼に服従せよ。」
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ。」
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給う。」
 クルアーンとスンナの明文は、カリフ擁立の手続きが忠誠誓約であることを明示している。預言者の直弟子たちはそれを理解し、それに倣った。正統カリフの忠誠誓約がその証しなのである。

カリフ擁立と忠誠誓約の具体的手順
カリフに忠誠を誓う前の段階の、カリフの擁立が完了するための具体的な手順は、様々な形がありうる。使徒ムハンマドの逝去後の正統カリフたち、つまり、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーのカリフ擁立もそうであったのでる。総ての預言者の直弟子たちは、正統カリフたちのカリフ就位の様々な手順を黙認したが、もし手順がイスラーム聖法に反していたなら、彼らはそれを拒絶していたはずである。なぜならカリフ位はムスリムの共同体としての存在、イスラームによる統治の存続がそれにかかっている要であり、最重要事項だったからである。
これらの正統カリフたちの就位がどのように行われたかを調べるなら、それが以下のようであったことが分かる。
先ず一部のムスリムたちがサアーダ族の館で討議したが、カリフ候補者は、サアド・ブン・ウバーダ、アブー・ウバイダ、ウマル、アブー・バクルの4人であったが、ウマルと、アブー・ウバイダはアブー・バクルと争うことを好まず、アブー・バクルとサアドの二人だけが競う形となり、協議の結果として最終的にアブー・バクルに忠誠が誓われた。そして翌日ムスリムたちが預言者モスクに招集されアブー・バクルに忠誠を誓ったのである。この最初のサアーダ族の館での忠誠誓約が(カリフ位)締結の忠誠誓約(baiah iniqd)であり、それによってアブー・バクルはムスリムのカリフとなったのであり、翌日のモスクでの忠誠誓約は服従の忠誠誓約(baiah ah)であった。
そしてアブー・バクルが自分が死病に罹っていることを自覚した時、特にムスリム軍が当時の二大超大国ペルシャ帝国と東ローマ帝国と戦っていたこともあり、ムスリムたちを招集し、誰が彼の次のムスリムのカリフになるのかを協議した。この協議は3か月続いたが、アブー・バクルはムスリムの多数の考えを知り協議を終えて、彼らにウマルが彼の次のカリフになるとの後任指名を行ったが(ahada)、これは現代の用語では「推薦(rasshaa)」にあたる。この後任指名、あるいは推薦は、彼の後任としてウマルがカリフになるとの統治契約ではなかった。なぜなら、アブー・バクルの死後、ムスリムたちはモスクに集まり、ウマルにカリフ就位の忠誠誓約を行っており、ウマルはこの忠誠誓約によりカリフになったのであり、事前の協議によってカリフになったのでも、アブー・バクルによる後任推薦によってカリフになったのでもない。なぜならもしアブー・バクルによるウマルの推薦がカリフ就位の統治契約であったなら、改めてムスリムたちが忠誠誓約を交わす必要はなかったからである。それに加えて既述の通り、ムスリムたちの忠誠誓約なしには誰もカリフになることはできないことを明示するクルアーンとスンナの明文が存在しているのである。
それゆえウマルが(モスクでペルシャの刺客に)刺された時、ムスリムたちは彼に後任のカリフを指名するように求めたが、ウマルはそれを拒否した。しかし彼らがなおも彼に執拗に求めたため、ウマルは6人の候補の名を挙げ、その6人とは別に人々の礼拝の導師としてはスハイブを指名し、彼が指定した3日の間に、彼が推薦した6人のうちからカリフを自分たちで選任するようにと指示したのである。ウマルはスハイブに「そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」と言っていた。
その後で、ウマルはタルハ・アル=アンサーリーを50人の配下をつけて彼らカリフ候補者の護衛に任じ、アル=ミクダード・ブン・アル=アスワドに候補者たちの会合の場の選定を課した。そしてウマルが亡くなり、カリフ候補者たちの会合が開かれると、アブドッラフマーン・ブン・アウフが「あなた方の中で辞退して最善者がカリフ位も就くようにそれを委ねる者はいないか」と尋ねた。全員が黙っているとアブドッラフマーンは「私は辞退する」と言って、彼を除いて誰が最もカリフに相応しいかを1人ずつ尋ねて回った。その結果、彼らの答えは、アリーとウスマーンの2人に集約された。その後でアブドッラフマーンはムスリムたちが二人のうちのどちらを望むかを、男性にも女性にも昼夜を徹して人々の意見を聞き集めたのである。アル=ブハーリーはアル=ミスワル・ブン・マフラマが「私が眠りについた時、アブドッラフマーンが扉を叩いて私を起こし『あなたは眠っていたようだが私はこの3日間(つまり3夜)、殆ど眠っていない』と言った」と伝えている。そして人々が夜明け前の礼拝を挙行し、ウスマーンの忠誠誓約が執り行われ、それによってウスマーンはムスリムのカリフになったのであり、ウマルによる6人のカリフ候補者指名によってカリフになったのではないのである。
そしてその後、ウスマーンが殺害されるとマディーナとクーファのムスリムの大多数がアリー・ブン・アビー・ターリブに忠誠を誓ったので、アリーがムスリムの中世誓約によりカリフになったのである。
正統カリフたちの忠誠誓約を精査すれば、カリ不候補者たちが全てカリフ位締結の資格条件を満たしていることが先ず人々に周知され、その後で、ウンマ(ムスリム共同体)を代表するムスリムの有力者たち「解き結ぶ者」の意見が集約され、預言者の直弟子たち全て、あるいは大半が(カリフに就けること)を望む者が、カリフ位締結の忠誠誓約を交わされ、カリフに就位し、それによってムスリムたちは彼への服従が義務となり。彼に服従の忠誠を誓うのである。こうしてカリフが誕生し統治と権力におけるウンマの代理人となるのである。ちなみに正統カリフ時代には、ウンマの代表者たちは、周知であった。というのもそれは預言者の直弟子たちか、首都マディーナの住人であったからである。
 これが正統カリフに対する忠誠誓約の歴史的事実から我々が理解したことであるが、その他にウマルの6人の指名とウスマーンの忠誠誓約の手順から学ぶべき二つの事柄がある。それは新カリフを選ぶまでの期間を取り仕切る臨時代行の存在と、候補者の最大定員が6人となることである。

カリフ臨時代行
 カリフは、自分の死期を悟った場合、カリフ位を失う直前の適切な時期に、新しいカリフ擁立の手続き期間中にムスリムの諸事を取り仕切る臨時代行を指名する権限を有する。この臨時代行はカリフの死後、その職務を開始するが、その基本的役割は、新カリフ擁立までの3日間の穴埋めである。
 この臨時代行は政令を発布することはできない。なぜならそれはウンマが忠誠を誓ったカリフの大権だからである。また同様に彼にはカリフ候補としての自薦も、候補者の推薦もできない。なぜならウマルはカリフ候補に推薦した者たちとは別に臨時代行を任命したからである。
 この臨時代行の任期は新カリフの就位で終了する。なぜなら彼の任務はこの(新カリフの選定)仕事のための一時的なものだからである。
 スハイブがウマルにより任命された臨時代行であったという根拠は、ウマルの6人のカリフ候補者に対する言葉「あなた方が協議する3日の間はスハイブに礼拝を挙行させよ」と、スハイブに対する言葉「3日の間、人々の礼拝を先導せよ。・・・中略・・・そしてもし5人が1人をカリフに選んで合意しているのに、1人だけがそれを拒むようならその反対者の首を剣で刎ねよ」である。これはスハイブがウマルにより彼らに対して任命されたたリーダーであったことを意味している。というのは、ウマルは彼を礼拝の先導者に任命していたが、当時は、礼拝の先導職は人々の指導者であることを意味していたからであり、またウマルは彼に処罰の権限(剣で首を刎ねよ)を授与したが、処刑の権限を有するのは、為政者だけだからである。
 そしてこの出来事は、預言者の直弟子たちが集まる場で、1人の反対者もなく、進められたのであり、それによってカリフには新しいカリフを擁立する手続きを取り仕切る臨時代行者を指名する権限があることについてのコンセンサスとなったのである。またこの事例に基づき、新しいカリフの擁立手続きを取り仕切る臨時代行を特に指名せずにカリフが死亡した場合のために、一定の人物が臨時代行となるような政令をカリフが生前に発布することも可能となる。たとえばカリフが病で亡くなる前に臨時代行を指名しなかった場合に、彼の側近の補佐たちの中から一番の年長者が臨時代行となることを原則とし、例外的に他の有力候補がある場合には年齢を考慮して選び、側近の補佐の中に適切な者がいない場合は、後述の執行官の中から選ぶ、といった規則を定めておくことができる。これはカリフの罷免の際にも適用され、適当な候補者が居ない場合には、自動的に側近の補佐の中の最年長者が臨時代行となるが、側近の中に候補者が居る場合は、それらの候補者の中で最も年齢が高い者がなり、候補者が側近の全てを見渡してもがない場合には、執行官の中で最も年齢の高い者がなる、といった形になるが、彼ら全てが推薦を望むなら、臨時代行職は最年少の執行官に定まる。
 またこれはカリフが捕虜になった場合にも当てはまる。但しこの場合はカリフの救出の見込みがある場合とない場合とで臨時代行者の権限の詳細は異なる。そうした権限についてはカリフが在職中に発布する法令によって定められる。
 この臨時代行者は、カリフのジハード出征中、旅行中の代理とは異なる。それはアッラーの使徒がジハードに出征された時や、別離の巡礼を行われたときになされたのと同じなのである。こうした際に代理となる者は、こうした代理が関わる事柄の処理において、カリフが受権した限定された権限のみを有するのである。

候補者の絞込み
 正統カリフの擁立の方法を調べた者には、カリフ候補者の数には限りがあることが分かる。サーイダ族の館では、候補者はアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ、サアド・ブン・ウバーダであり、彼らだけしかいなかったが。ウマルとアブ・ウバーダはアブー・バクルには匹敵しなかったので争うことを好まず、実際には推薦はアブー・バクルとサアドの二人だけの間で争われ、その館に居合わせた有力者たち「解き結ぶ者」はアブー・バクルに忠誠を誓い、そして翌日ムスリムたちが預言者モスクでアブー・バクルに服従の忠誠誓約を交わしたのである。
 アブー・バクルはウマルをカリフに推薦したが、ウマルの他には候補者はおらず、そこでムスリムたちは先ずウマルにカリフ位締結の忠誠を近い、次いで服従の忠誠を誓ったのである。
 ウマルは6人を推薦し、カリフ候補を彼らだけとし、彼らの間でカリフを選ぶように指示した。そこでアブドッラフマーン・ブン・アウフが(自分が辞退した後の候補者の)残りの5人と相談し、残りの候補者たちから委任を取り付けて、アリーとウスマーンの二人に候補を絞った。そししてアブドッラフマーンは人々の意見を調べ、結果的に世論はウスマーン(をカリフとすること)で固まったのである。
 アリーの場合は、他にカリフの候補はおらず、マディーナとクーファのムスリムの大半は彼に忠誠を誓い、彼は第4代カリフとなった。ウスマーンに対する忠誠誓約において、カリフ選出に許される最長の猶予期間3昼夜と、6人から2名まで絞られる最大候補者数が明示された。そこで以下に我々のテーマに関わる限りで、この出来事について少し詳しく論じよう。
(1)ウマルはヒジュラ暦23年ズルヒッジャ月を4日を残す水曜日の夜明け前にモスクで礼拝に立っているところを呪わしいアブー・ルウルウにより刺された傷が元で、24年ムハッラム月初日の日曜朝に亡くなり、ウマルの遺言に従ってスハイブが彼の葬礼を執り行った。
(2)ウマルの葬儀を終えた後、アル=ミクダードはウマルが諮問を遺言した6人をある家に集めた。アブー・タルハが立って彼らの議論を纏め、彼らは座って協議し、アブドッラフマーン・ブン・アウフに彼らの中からカリフを選ぶように委任することで合意した。
(3)アブドッラフマーンは彼らと話し合いを始め、個別にもし自分でないとするなら残りの者の中で誰がカリフになるべきかと尋ねたが、彼らはアリーかウスマーンしかいない、と答えた。そこでアブドッラフマーンは6人のうちからこの2人に絞った。
(4)その後、アブドッラフマーンは、周知のように人々の意見を聴取した。
(5)そして水曜の夜、つまりウマルが亡くなった日(月曜)から3夜が経った後、アブドッラフマーンは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねた。以下にイブン・カスィール(ハディース学者、1373年没)の『初めと終り(al-Bidya wa al-Nihyah)』から引用しよう。
ウマルが亡くなってから4日経った夜、アブドッラーは甥のアル=ミスワル・ブン・マフラマの家を訪ねて言った。『ミスワル、お前は眠っていたのかね。アッラーにかけて、私はこの3晩の間、殆ど眠っていない ― つまり日曜の朝にウマルが亡くなってからの月曜の夜、火曜の夜、水曜の夜の3夜である』 ― 中略・・・そして言った。『行って、アリーとウスマーンを私の許に呼んできなさい』そこで彼は二人を連れてモスクに行った。そこで住民全体に『礼拝に集合せよ』との号令がかけられた。それは水曜の夜明け前の礼拝であった。その後、アブドッラフマーンはアリーの手を取り、彼にクルアーンとアッラーの使徒のスンナとアブー・バクルとウマルの先例に則ることで忠誠誓約を交わすことを求めた。それに対してアリーは『クルアーンとスンナについては然り。しかしアブー・バクルとウマルの先例に関しては、個人の自由な裁量に過ぎない』との有名な答えを返した。そこでアブドッラフマーンはアリーの手を離し、ウスマーンの手を取り、アリーに求めたのと同じことを求めた。そこで、ウスマーンは『アッラーにかけて、然り』と応えたので、ウスマーンに対する忠誠の誓いが締結されたのである。スハイブはその日の夜明け前の礼拝と昼の礼拝では人々を先導したが、晩午の礼拝はウスマーンがムスリムのカリフとして人々を先導した。」
つまり、ウスマーンに対するカリフ位締結の忠誠誓約の開始は夜明け前の礼拝の時点であったにもかかわらず、スハイブの臨時代行権は、マディーナの有力者たち「解き結ぶ者」が(揃って)ウスマーンに忠誠を誓った後で初めて完了するのであるが、それは晩午の礼拝の直前に完了したのである。というのは、預言者の直弟子たちが日中から晩午の前にかけてウスマーンへの忠誠誓約に呼びかけあったので、晩午の少し前に事が終わったからである。それでスハイブの臨時代行権は終了し、ウスマーンが人々のカリフとして彼らの晩午の礼拝を先導したのである。
 『初めと終り』の著者は、ウスマーンへの忠誠誓約が夜明け前の時点で締結されていたにもかかわらず、スハイブが昼の礼拝で人々を先導したのかについて、以下のように説明している。
「人々はモスクで彼(ウスマーン)に忠誠を誓った。そしてその後で、彼(ウスマーン)は衆議院(dr al-shr) ― つまり衆議をする者たちが集まる家 ― に連れて行かれ、そこで残りの人々が彼に忠誠を誓ったので、忠誠誓約は、昼過ぎまで完了しなかったかのようでもあったのである。それで預言者モスクでのその日の昼の礼拝はスハイブが執り行い、ウスマーンが『アミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)』として最初にムスリムたちを先導して挙行した礼拝は、晩午の礼拝だったのである。」(ウマルが刺された日、亡くなった日、ウスマーンへの忠誠誓約がなされた日の日付については、異論が存在するが、我々はここで最有力説を挙げている)
 以上を踏まえて、カリフが空位(死亡や罷免などによる)になった後での次のカリフの推挙においては、以下の事項が考慮に入れられなければならない。
推挙の活動は猶予期間中、昼夜を徹して行われなければならない。
カリフ位締結の資格条件を満たす候補者の絞込みは、行政不正裁判所が行う。
有資格の候補者の絞込みは2回にわたる。初回は6名で、第2回は2名である。この2回の候補者の絞込みを行うのは、ウンマの代表としての国民議会(majlis al-ummah)である。というのは、ウンマはウマルに委任したのであり、ウマルがそれを6人に委任し、その6人が自分たちの中からアブドッラフマーンに委任し、彼が討議の末に2人に絞ったのであるから、これらの全ての最終的な拠り所は明らかにウンマ、つまりウンマの代表者たちだからである。
カリフ臨時代行者の任期は忠誠誓約の手続きの完結、カリフ就位によって終結するのであり、選挙結果の公表によるのではない。それゆえスハイブの任務はウスマーンの専任によってではなく、彼への忠誠誓約の完結によって終了したのである。
既述の見地から、3昼夜の期間内のカリフ選任形態を定める法令が発布される。既にそのための法令は起案されているが、アッラーのお許しにより、適切な時期に、それを討議の上で法制化することになろう。
 これまで述べたことは、カリフが死んだか罷免された場合に、新しいカリフをその代わりに立てることを意図していた。そもそもカリフが存在しない場合については、イスラーム聖法の諸法規を施行し、世界にイスラームの宣教を広めるために、自分たちのカリフを擁立することがムスリムに課された義務となる。そして1924年3月3日(ヒジュラ暦1342年らジャブ月28日にイスタンブルでイスラーム・カリフ制が滅亡して以来の現状がそうなのである。そしてイスラーム世界に存在するイスラーム諸地域のあらゆる地域(qaar)が、忠誠誓約を受けてカリフ位が締結される候補地となる。イスラーム諸地域のうちのどの地域であれ、カリフに忠誠誓約を行えば、その者にカリフ位が締結され、その他のイスラーム地域に住むムスリムたちは全て彼に服従の忠誠、つまり従属の忠誠を誓うことが義務となる。但しそれは以下の4つの要件を満たした上で、その土地の住民による忠誠誓約によって彼にカリフ位が締結された場合である。
(1)その地域の権力が、ムスリムのみに依拠する独立権力であり、不信仰(非ムスリム)の国家、あるいは不信仰者(非ムスリム)の影響力に依拠していないこと。
(2)その地域のムスリムの安全保障がイスラームの安全保障であり、不信仰の安全保障でないこと。つまり内外のその防衛が純粋なイスラーム軍事力と看做しうるムスリム軍によるイスラームの防衛であること。
(3)イスラーム法の包括的革命的全面的に適用を即座に断行し、イスラームの宣教に努めること。
(4)カリフが、オプショナル資格条件は満たしていなくても、忠誠誓約を受けたカリフが、カリフ就位資格条件は完備していること。必要なのは就位資格条件である。
 その地域がこの4つの要件を満たしていれば、その地域のみの忠誠誓約によってカリフ制は成立し、それだけでカリフ位は締結され、その地の住民が忠誠を誓い合法的に就位したカリフは、イスラーム聖法に則る正当性を有するカリフであり、彼以外に対する忠誠誓約は無効となる。
 それ以降は、たとえいかなる地域であれ、別のカリフを擁立し忠誠を誓ったとしても、それは無効であり、カリフ位は成立しない。それは「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」、「(カリフの)一人一人順に忠誠を尽くせ」、「イマーム(カリフ)に忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ」とのアッラーの使徒の言葉によるのである。
 
忠誠誓約の形態
忠誠誓約の合法性の典拠、忠誠誓約こそイスラームにおけるカリフ就位の手続きであることは既に説明した。その具体的な形態について言えば、それは按手であるが、時には文書によることもありうる。アブドッラー・ブン・ディーナールは言った。
「人々がアブドルマリク(ウマイヤ朝第5代カリフ在位685-705年)の周りに集まった。私はイブン・ウマルが『私はアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)アブドルマリクに出来る限りクルアーンとアッラーの使徒のスンナに則り聞き従うことを承認します』と書いたのを見た。」
そして忠誠誓約はどのような方法でも有効であり、また忠誠誓約の文言は、特定の文言に限定されてはいない。しかしカリフの側ではクルアーンとスンナに則って行動することが含まれていなくてはならず、忠誠誓約を与える側には苦しいときにも快適な時にも意に沿うことにも意に沿わないことにも服従することが含まれていなくてはならない。そしてここに述べたことに基づき、その形式を定める法令が発布される。
 誓約者がカリフに忠誠を誓った時点で、その誓約は誓約者の首にかかった信託となり、彼にはその撤回は許されない。それはカリフ位締結に関してそれを誓うまでは誓約者の権利であるが、一旦誓約を与えれば、その遵守が課され、撤回を望んでも許されないのである。
「遊牧民がアッラーの使徒にイスラームにおける忠誠を誓ったが、それから病気になり、『私の忠誠誓約を解除してください』と頼んだが、使徒はそれを拒否された。それからその遊牧民がまたやって来て『私の忠誠誓約を解除してください』とまた頼んだが、使徒はまた拒まれたので、遊牧民は退出した。そこでアッラーの使徒は『マディーナはふいごのようであり、悪いものを篩い落とし、良きものを認知する』と言われた。」(ハディース)
「私(アブドッラー・ブン・ウマル)はアッラーの使徒が『服従から手を引いた者は、最後の審判の日にアッラーにまみえるが、彼には弁明の余地はない』と言われるのを聞いた。」(ハディース)
カリフへの忠誠の誓いを破ることは、アッラーへの服従から手を引くことに他ならない。但しこれはその忠誠の誓いがカリフ就位の忠誠誓約であるか、カリフ就位の忠誠誓約が締結されているカリフへの服従の忠誠誓約であった場合であり、カリフに初めに忠誠を誓ったが、彼への忠誠誓約が最終的には成立しなかった場合には、ムスリムたちがその者のカリフ就位の忠誠誓約を成立させなかったのであるからも、彼も自分の忠誠誓約を破棄することが出来る。このハディースは、カリフへの忠誠誓約の撤回(の禁止)に当てはまるのであり、カリフ位が締結されなかった者への忠誠誓約の撤回についてではないのである。
カリフ制の一体性
ムスリムは一つの国家に纏まり、ただ1人のカリフを頭に戴かなくてはならない。イスラーム法上、ムスリムが世界の中で2つ以上の国家を有し、2人以上のカリフを戴くことは禁じられている。
同様にイスラームにおける統治制度は、集権制(nim wadah)でなくてはならず、連邦制は禁じられている。典拠はいずれもムスリムが収録している以下のハディースである。
「イマームに忠誠を誓い、按手し信義を捧げた者は可能な限り服従し、彼に背く者が現れれば、その反逆者の首を刎ねよ。」
「お前たちが1人の男の下で団結しているところに、お前たちの統一を乱し団結を崩させようと望む者がやって来たなら、その者を殺せ。」
「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ。」
「イスラエルの民は預言者によって統治されてきた。それで、一人の預言者が亡くなると次の預言者が跡を継いだ。だが私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。私の後に預言者はもはやいないが、カリフ(後継者)が現れ、それは多数となろう。一人一人順に忠誠を尽くし、アッラーが彼らに授けられた権限に従え。まことにアッラーは、彼が彼らに何をしたのか、彼らに尋ね給う。」
第1のハディースは、イマーム位、つまりカリフ位が1人に付与されたら、そのカリフへの服従が義務となり、別の者がそのカリフ位に背くなら、反逆を止めない限りその者と戦い、殺すことが義務となることを明らかにしている。
第2のハディースはムスリムが1人のカリフの権威の下に団結している時に、ムスリムの統一を乱し、団結を壊す者が現れたなら、その者の処刑が義務となることを明らかにしている。この2つのハディースの内容は、たとえ武力に訴えてでも、カリフ国家の分裂を阻止し、その分割を許可せず、分離を禁止すべきことを示している。
第3のハディースは、死亡、罷免、辞任などにより、カリフが空位になった場合に、2人のカリフに忠誠誓約が為された場合、2人のうちの後の方の処刑が義務となることを示している。つまりカリフは、正当な忠誠誓約を最初に受けた者であり、その後で忠誠誓約を受けた者は、そのカリフ位の放棄を宣言しない限り処刑されるのである。2人より多数に忠誠誓約が為された場合は尚更である。これは国家の分割の禁止、つまり一つの国家を複数の国家に細分してはならず、一つの国家を維持しなくてはならないことの比喩表現なのである。
第4のハディースは使徒の逝去後に多数のカリフが現れることを示している。また多くのカリフが現れた場合にどうすべきかとの直弟子たちの質問に答えて、ムスリムは最初に忠誠を誓ったカリフに忠義を尽くすべきである、と使徒は教えられた。それは、最初に忠誠誓約を受けた者だけが、イスラーム法が正当性を認めるカリフであり、彼だけが服従に値するからである。それ以外の者たち(カリフ僭称者たち)のカリフ位は無効であり、イスラーム法上合法ではない。なぜならムスリムのカリフが存在するにもかかわらず、別のカリフに忠誠が誓われることは許されないからである。またこのハディースは、服従はただ1人のカリフに対してのみ義務となることを示しており、その帰結として、ムスリムが1人以上のカリフ、1つ以上の国家を有することが許されないことをも示しているのである。

カリフの権限
カリフは以下の権限を有する。
(a)カリフは、ウンマの諸事の処理に必要な限りにおいて、クルアーンとアッラーの使徒のスンナから正当なイジュティハード(法的推論)によって演繹されたイスラーム法の諸規則を法制化する。その規則は服従が義務付けられ違反が許されない法令となる。
(b)カリフは国家の内政と外政の双方の責任者である。またカリフは軍の最高司令官であり、宣戦、休戦、停戦、その他の条約締結の権限を有する。
(c)カリフは、外国人の大使の承認、否認、ムスリムの大使の任命、罷免の権限を有する。
(d)カリフは、補佐と総督の任命権、罷免権を有する。彼らはカリフと国民(ウンマ)議会に対して責任を負う。
(e)カリフは司法長官(qd al-quat)とその他の裁判官を任命し、罷免する。例外は行政不正裁判官(q malim)で、カリフが任命するが、罷免に関しては「裁判」章の該当箇所で詳述するところの一定の条件がカリフに課される。
(f)またカリフは諸官庁の役人、軍司令官、参謀、将軍を任命し、罷免する。これらの者は全てカリフのみに対して責任を負い、国民(ウンマ)議会に対しては責任を負わない。
(g)カリフは、国家予算を定めるイスラーム法の諸規則を法制化する。カリフは歳入であれ、歳出であれ、使途が決まっている全ての予算額の配分を決定する。
 上記の6項目の詳細の典拠は以下の通りである。
(a)項の典拠は預言者の直弟子たちのコンセンサスである。というのは、「法令(qnn)」は専門用語としての意味は「人々がそれに則って行動するように権力者(suln)が発布した命令」であり、「権力者が人民に人間関係において服従を強制する法規の集合」と定義される。つまり権力者が特定の規則を命令すれば、それらの規則は法令となり、人々にそれが課されるが、権力者がそれを命じたのでない限り、それは法令とはならず、人々には課されることもない。ムスリムはイスラーム聖法の諸規則に則って生きる、つまりアッラーの命令と禁止に則って生きるのであり、権力者の命令と禁止に則って生きるのではない。ムスリムが則って生きるのはイスラーム聖法の規則であって、権力者の命令ではない。但し預言者の直弟子たちは、これらのイスラーム法の諸規則について見解を異にしていた。彼らの一部は聖法のクルアーンとスンナの明文から、他の者には分からなかった何かを発見することもあり、彼らは皆、聖法の明文の各自の理解に従って生きていたのであり、彼らのそれぞれにとっては自分の理解がそのままでアッラーの規則であったのである。
しかし一方で、ウンマの諸事を処理するためにはムスリム全員が一つの意見に纏まって行動しなくてはならず、各自が自分の判断で行動してはならないようなイスラーム聖法の諸規則も存在し、それはかつて現実に生じたのであった。たとえばアブー・バクルは公金(戦利品)に対してムスリムは全員が平等に権利を有するので、彼らの間で平等に分配されるべきである、と考えた。ところがウマルは、かつて(多神教徒として)アッラーの使徒と敵対して戦った者(新参の改宗者)が、アッラーの使途の側で戦った者と同じ分配を受け、貧しい者が富める者と同じだけを与えられるのは正しくない、と考えた。しかし、その時点ではアブー・バクルがカリフであったので、彼の見解の執行を命じ、つまり財の平等な分配を決定し、ムスリムたちはそれについて彼に倣い、裁判官も総督たちもその決定に従って行為し、ウマルもアブー・バクルに服し、彼の見解にしたがって行動し、それを執行したのであった。
しかしウマルがカリフになるとアブー・バクルの考えと違う自分の考えを法制化し、公金を平等ではなく、功績と必要に応じて与える論功行賞による分配という彼の見解を命じ、ムスリムたちは彼に倣い、総督や裁判官はそれに従って行為したのである。こうしてカリフには独自の正しい法的推論により聖法から演繹した特定の法規定を法制化し、その執行を命ずる権限があり、ムスリムはそれが自分の推論と異なる場合には、自分の推論と考えを実行せずにカリフの判断に従うことが義務となることで、直弟子たちの間にコンセンサスが成立したのである。
そしてこれらの法制化された法規定が法令であり、この法令の制定はカリフのみの大権であり、他の何者といえどもその権限を有することは決してないのである。
(b)項の典拠は使徒の行為である。なぜなら使徒こそが総督、裁判官を任命し、監査したのであり、また使徒が売買を監督し、偽装を禁じたのであり、人々に財を配分したのであり、使徒が失業者に職の世話をしたのであり、使徒が国政の内政の全てを取り仕切り、また使徒が王たちに書簡を送ったのであり、使徒が外交使節を引見したのであり、使徒が国政の外政を全て担当したのであり、また使徒が実際に軍隊を率いたのであり、多くの戦役で彼自身が戦闘の陣頭指揮をとったのである。
また遠征隊に関しては、使徒が遠征隊を派遣し、隊長を任命したのである。ウサーマ・ブン・ザイドをシリア派遣軍の司令官に任命した時は、ウサーマが年若かったために弟子たちがそれに不満を抱いたが、使徒は彼らに彼の指揮を受け入れるように命じた。この話は、カリフは単なる名目上の軍の最高司令官ではなく実際の指揮官でなければならないことを示している。また使徒こそがアラブ多神教徒のクライシュ族に宣戦布告し、またユダヤ教徒3部族(クライザ族、アル=ナデール族、カイヌカーウ族)に、そしてハイバル、東ローマ帝国に宣戦布告されたのである。起こったどの戦争においても使徒がその宣戦を布告しているのであり、これらは宣戦布告が預言者の大権だったことを示している。
また同様にユダヤ教徒と協定を結んだのも使徒なら、ムドゥリジュ族とダムラ族のその同盟者と協定を結んだのも使徒、アイラの町の長ユハンナ・ブン・ルウバと協定を結んだのも使徒、フダイビーヤの協定を結んだのも使徒であった。フダイビーヤの協定にはムスリムたちは不満であったが、使徒は彼らの声に耳を貸さず、彼らの意見を退け、協定を締結された。このことは他の誰でもなくカリフだけが、和平協定にせよ、他の協定にせよ、協定の締結の権限を有することを示しているのである。
(c)項の典拠は、偽預言者ムサイリマの二人の使節を接見されたのも使徒ムハンマドであり、クライシュ族の使節アブー・ラーフィウを引見されたのも使徒であり、また東ローマのヘラクリウス帝、ペルシャ帝国のホスロー帝、エジプトのアル=ムカウキス王、ヒーラのアル=ハーリス・アル=ガッサーニー王、イエメンのアル=ハーリス・アル=ヒムヤリー王、エチオピアのナジャースィー王らに書簡を送られたのも使徒であり、フダイビーヤの和議で、ウスマーン・ブン・アッファーンをクライシュ族への使節として派遣されたのも使徒であった。これらの事績は外交使節を接見し面会を拒否するのはカリフであり、また使節を任命するのもカリフであることを示している。
(d)項の典拠については、総督を派遣するのは使徒であり、使徒がムアーズをイエメンに総督として派遣されたのであり、また総督を罷免するのも使徒であり、彼はバハレーンの総督のアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーを住民の彼に対する苦情のために罷免されたのである。総督は地方の住民に対して責任を負っており、またカリフに対しても責任を負っている。また彼らは国民(ウンマ)議会に対しても責任を負っているが、それは国民議会が全ての地方を代表しているからである。
これは総督の話であったが、補佐については、アッラーの使徒には二人の補佐がいた。それはアブー・バクルとウマルであり、使徒は在世中、両名を罷免せず、また彼ら二人以外の補佐を任命されることもなかった。つまり彼は両者を任命したが罷免はしなかったのである。補佐の権力はカリフから授権されたものなので、補佐はカリフの代理人に相当する。それゆえカリフは代理との類推から補佐の罷免権を有する。なぜなら代理委任者には代理を罷免する権利があるからである。
(d)項の典拠は、使徒がアリーにイエメンの裁判を任せたことである。アフマドがアムル・ブン・アル=アースの以下の言葉を伝えている。「使徒の許に相争う2人の訴人がやって来た。そこで使徒は『アムルよ、両名の間を裁いてみよ』と言われた。そこで私が『アッラーの使徒よ、あなたは私よりそれに適任です』答えると使徒は『たとえそうであってもである』と言われました。そこで『もし私が両者を裁けば、私には何があるのでしょう』と尋ねると、使徒は『もしお前が両名を裁き、正しい判決を下せば、お前には10の報奨がある。もしお前が独自の推論に努め、結果的には誤った判決を下しても、お前には1つの報奨がある』と言われました。」
またウマルも総督、裁判官を任命、罷免していた。ウマルはシュライフをクーファの裁判官、アブー・ムーサーをバスラの裁判官に任命し、シリヤ総督シュラフビール・ブン・ハサナを解任し、ムアーウィヤを新総督に任命した。シュラハビールがウマルに「私が臆病なせいで私を罷免したのですか、それとも背任のせいですか」と尋ねると、ウマルは「どちらでもない。ただ私はもっと強い男を欲したのだ。」と答えた。またアリーはアブー・アル=アスワドを任命したが、その後彼を解任した。そこでアブー・アル=アスワドが「なぜ私を罷免したのですか。私が背任したのですか、それとも罪を犯したのですか。」と彼が尋ねると、アリーは「お前が訴人たちを圧する話し方をすると思うからだ」と答えた。
ウマルとアリーは他の預言者の直弟子たちが見聞きしているところでそれ(任命、罷免)を行ったのであるが、誰一人この両名を非難する者はいなかった。それゆえこれらの事例は全て一般論としてカリフには裁判官の任命権があることの典拠となるのである。同様にカリフには代行者に裁判官の任命を任せることもできる。それは代理委任(waklah)との類推によるもので、カリフには自分に処理権のあるすべての法律行為について代理を立てることが許されているのと同じく、自分の権限の範囲内のことは全て代行を委ねられる(inbah)。
行政不正裁判官(qd malim)の罷免が(許されない)例外となるのは、カリフか、その補佐か、最高裁長官が被告となる訴件の場合であり、その根拠は「禁止事項の誘因となるものは禁じられる」との法原則(qidah)である。なぜならこのようなケースで、カリフにその件を裁く行政不正裁判官の罷免権を与えると(罷免されるのを恐れて)裁判官の判決に影響を与える可能性があり、結果的に、イスラーム法による裁判が機能不全をきたすが、それは禁じられているからである。病勢裁判官の罷免権をカリフに与えることは、禁止事項の誘因となるのである。特にこの法原則の適用に当たっては(行政不正裁判官が罷免を恐れてカリフや配下に有利な判決を下す恐れについて)確実性ではなく蓋然性があれば十分なのである。それゆえこうしたケースにおいては行政不正裁判官の罷免権は行政法廷に与えられるが、それ以外のケースでは規定は原則通り、つまり行政不正裁判官の任命、罷免権はカリフが有するのである。
また諸官庁の役人の任命についても、使徒ムハンマドは国家機構の官庁の書記たちを任命していたが、それらの書記たちは現行の諸官庁の役人に相当するのである。使徒はアル=ムアイキーブ・ブン・ファーティマ・アル=ドゥースイーを印璽官に任命し、また彼を戦利品担当にも任じた。またフザイファ・ブン・アル=ヤマーンをヒジャーズ地方の農産物勘定官に任命し、アル=ズバイル・ブン・アル=アワームを浄財管理官に任命し、アル=ムギーラ・ブン・シュウバを債務・商取引会計官に任命したのはそうした任命の例である。
軍司令官や将軍たちについては、使徒はハムザ・ブン・アブドルムッタリブを海岸でクライシュ族を襲撃するための30人隊の指揮官に任命され、ウバイダ・ブン・アル=ハーリスを60人隊の指揮官に任じ、クライシュ族との会戦のためにラービグ渓谷に派遣され、サアド・ブン・アビー・ワッカースを20人隊の指揮官に任命し、マッカ方面に派遣された。このように使徒は軍司令官たちを任命されていたことは、カリフの軍司令官、将軍の任命権の典拠となるのである。
そして彼らは皆、使徒に対して責任を負っていたのであり、使徒の他の誰に対しても無答責であったことは、裁判官、諸官庁の役人、軍司令官、参謀、その他の全ての官吏はカリフに対してのみ責任を負い、国民(ウンマ)議会に対して責任を負うわけではない。彼らの誰も国民議会に対しては無答責であるが、補佐、総督、そして知事も彼らに準じて別となる(国民議会に対しても責任を負う)。なぜならこうした者たちは為政者(ukkm)の一種であるからである。それ以外の官吏は誰も国民議会には責任を負わず、全員がカリフに対してのみ責任を負うのである。
(e)項の国家財政については、収入も支出もイスラーム聖法の規定によるものに限定され、1ディーナールといえども、イスラーム聖法の規定に依らずして徴税されることはなく、また1ディーナールといえどもイスラーム聖法の規定に依らずして費やされることはないのである。ただし支出の詳細、あるいは「予算の内訳」と呼ばれるものの決定はカリフの判断と自由裁量に任されるのであり、収入に関しても同様である。たとえば、カリフは歳入に関しては、地租納税地の地租はいくらであり、人頭税納税地の人頭税はいくらであるなどと決定するのであり、歳出については道路にはいくら、病院にはいくら、などと決めるのである。こうしたことはカリフの考えにかかっており、カリフは自分の考えと裁量に従ってそれを決定するのである。それは使徒が代官たちから収入を受領し、その配分を自ら取り仕切られ、イエメン総督のムアーズの場合のように、一部の総督には収入の受領とその配分を委ねられたからである。そしてその後には、正統カリフたちは、全員がカリフとしての職責において自分の考えと裁量に基づきその国家予算の受領と支出を自分だけで行ったが、預言者の直弟子たちの誰もそれに反対しあなかった。またウマルがムアーウィヤを起用した場合のように、カリフの許可なくしては、カリフ以外の誰一人として、そこから1ディーナールといえども自分で受け取ることはなく、また使い込むこともなかったのである。これらの事例の全てが、国家予算の内訳はカリフ、あるいはカリフが代行に指名した者が定めることを示している。
 以上が、カリフの権限の内訳の詳細な典拠は、「イマームは羊飼いであり、自分のすべての羊に対して責任がある」とのハディース である。つまり、臣民の諸事の世話にかかわる万事は全てカリフの権限であり、代理委任との類推から、カリフには、望む者に、望むことを、望む形で、代行を委ねることが許されるのである。

カリフは法制化(法令制定)において聖法の規則に拘束される
 カリフは法制化において聖法の規則に拘束され、聖法の典拠から正しい推論によって演繹されたのではない規則を法制化することは禁じられる。カリフは法制化する諸規則において拘束され、課された法的推論の方法によって拘束される。それゆえカリフには以前に法制化した方法論と矛盾する方法論に基づく法規定の法制化は許されず、以前に法制化した法規定に反する命令を出すことも許されない。カリフはこのような二重の拘束に服するのである。
 第一の拘束、つまりカリフが法制化において聖法の諸規則に拘束されることの典拠は、第一に、アッラーはカリフであれカリフ以外であれ、全てのムスリムに、行為の全てを聖法の規則に則った行動を課されたということである。
至高なるアッラーは言われる。「いや、汝の主にかけて、彼らの間で生じた諍いの裁定を汝に求めない限り彼らは信仰したことにはならない」(クルアーン4章60節)
聖法の規則に則って行動するためには、立法者の言葉の解釈が分かれた時、つまり聖法の規則が複数生じた場合には、一つの特定の規則の制定が必要となり、複数の規則の中から一つの特定の規則を法制化することがムスリムの義務となるのである。つまりイスラーム法規定を執行しようと望む時には、カリフがその任務を果たす、つまり統治を行う時には、カリフの義務となるのである。
第二に、カリフが忠誠を誓われた基礎になる忠誠誓約の文言が彼にイスラーム法の遵守を課すからである。というのは、それはクルアーンとスンナの実行を条件とする忠誠誓約であるので、カリフにはその双方から逸脱することは許されない。もし確信犯としてそれを逸脱すればそのカリフは不信仰に陥ったのである、確信犯ではなくそれを逸脱しても悪人、不正、罪人なのである。
第三に、カリフは聖法の執行のために擁立されたのであるから、ムスリムに対して執行するのに、聖法以外のものを採用することは許されない。なぜならば聖法はそうした行いを、イスラーム以外に裁定を求めることを信仰の否定の段階に達するとの断定を示す表現で、厳禁しているからである。そしてその意味は、カリフが諸規則の法制化、つまり法令の制定において、聖法の法規定のみに拘束されということであり、またもしそれ以外によって法令を制定するなら、その聖法以外のものを信じてのことなら不信仰に陥っており、信じてはいなかったとしても悪人、不正、罪人だということなのである。
 第二の問題、つまりカリフが課された法的推論の方法によって拘束される根拠はカリフが執行する聖法の規則は、彼自身に対しての聖法の規則なのであって、彼以外の者に対しての聖法の規則ではないからである。つまり、それはカリフが自分の行動をそれに基づいて律するために法制化した聖法の規則なのであり、(それ自体が)聖法の規則であるわけではないからである。それゆえカリフが一つの法規定を演繹するか、あるいは他の学者の説に追随して(qallada)ある法規定の採用を採用した場合、その聖法の規則はカリフにとってはアッラーの法規定に他ならないので、他のムスリムたちに法制化するに当たっては、その聖法の規則を制定しなくてはならず、それに反する規則の制定は許されないのである。なぜなら(カリフが自分の判断で聖法の規則だと信じた規則に反する規則は)カリフ自身に関してはアッラーの法規定とはみなされないので、彼にとっては聖法の規則ではなく、それゆえ他のムスリムにとっても聖法の規則ではなくなるからである。そしてまたそれゆえにカリフは臣民に対して発布する命令においても彼が制定したこの聖法の規則に拘束され、彼自身が制定した法規定に反する命令を発することは許されないのである。なぜならもし自分が制定した法規定に反する命令を発したなら、聖法の規則に反する命令を発したのと同じことになるからであり、それゆえカリフには自分が制定した法規定に反する命令を発することはできないのである。
また法規定演繹(istinb)の方法論によって、聖法の規則の理解は異なってくる。それゆえカリフがもし聖法のクルアーンとスンナの明文から引き出されたものであるなら法規定の類推事因(illah)は聖法に適った類推事因であると考える一方、福利(malaah)は聖法に適った類推事因とはみなさず、明文に言及されない福利(malaah mursalah)は聖法上の典拠とみなさないなら、そう考えたことでカリフは独自に特定の法規定演繹の方法論を採用したことになり、その時点でその方法論に拘束される義務が生じ、明文に言及されない福利(malaah mursalah)を典拠とする法規定も、聖法のクルアーンとスンナの明文から引き出されたものでない類推事因(illah)に基づいた類推による法規定も法制化することは許されない。なぜならカリフはその典拠を聖法上の典拠と考えないので、その法規定はカリフ自身にとって聖法に適う法規定とはみなされない。それゆえ彼の見解ではそれは聖法上の法規定ではなく、カリフ自身にとって聖法の法規定とみなされない限り、他のムスリムにとっても聖法の法規定とはみなされないので、それはあたかも聖法の法規定ではない法規定を法制化したのと同様になるため、カリフにはそれが禁じられるのである。
もしカリフが「独自の法判断の出来ない追従者(muqallid)」であるか、「無限定な独自の法判断が出来る学者(mujtahid mulaq)」ではなく、特定問題のみの法判断しかできない学者であるか、法演繹の特定の方法論に拘束される学派の範囲内での選択判断のみができる学者である場合には、法制化にあたっては彼が追随する「独自判断のできる学者(mujtahid)」に従うか、自分の通暁した問題であれば典拠か、それに類するものがあれば、独自の判断を下す。この場合には、カリフにはただ自分が以前に制定した法規定に矛盾する命令を発布しないことのみが義務となるのである。

カリフ国家は世俗(basharyah)国家であり、神性(ilhyah)国家ではない
イスラーム国家とはカリフ制である。そしてそれは現世のムスリム全てに対する総合的首長職である。「二人のカリフに忠誠が誓われた場合は、二人のうちの後の方を殺せ」とのハディース(ムスリム)により、ムスリムの土地のいかなる国においてであれ、一人のカリフに正当な忠誠誓約がなされ、一旦カリフ制が樹立されたならば、ムスリムにはこの世の他のあらゆる地域においても他のカリフ制を立てることは禁じられる。
そしてカリフ制は、イスラームのもたらす思想とその定めた規則に基づきイスラーム聖法の諸規則を施行し、世界中の人々にイスラームを知らせ、呼び招くイスラームの宣教を世界中に弘め、アッラーの道において闘うために樹立された。
カリフ(後継者)制はまたイマーム(指導者)制、イマーラ・アル=ムウミニーン(信徒の長)制とも言われる。そしてそれは現世的職務(manab dunyaw)であり、来世的(ukhraw)職務ではない。それはイスラームの教えを人々に施行し、人々の間にそれを広めるために存在するのであり、それは預言者職とは決定的に違っている。
というのは、預言者職は神職(manab ilh)であり、アッラーはそれを御望みの者に授与し給う。その職においては、預言者、あるいは使徒が、啓示を通じて、アッラーから聖法を授かる。一方、カリフ制は人的(bashar)職であり、ムスリムたちが、自分たちが望む者に忠誠を誓い、ムスリムの中で彼らが望むカリフを自分たちの上に擁立するのである。我らの長ムハンマドは、為政者であり、彼がもたらした聖法を施行した。彼は預言者職と使徒職を担うと同時に、イスラームの諸規則の実施のためにムスリムの首長職をも担われたのである。アッラーは彼に宣教を命じられたように、統治をも命じ給うた。「彼らの間をアッラーが啓示されたものによって裁け・・・」(5章49節)また曰く。「我らは汝が人々の間をアッラーが汝に示されたものによって裁くために真理をもって汝に啓典を下した」(4章105節)また彼に命じ給うた。「使徒よ、汝の主から汝に啓示されたものを伝えよ」(5章67節)また曰く「私にこのクルアーンが啓示された。それによって私がお前たちと届いた者に警告するようにと」(6章19節)「包まる者よ、立って警告せよ」(74章2節)
このように使徒は(1)預言者職と使徒職、及び(2)彼に啓示されたアッラーの聖法(シャリーア)を執行するための現世におけるムスリムたちの首長職という二重の職務を担われていたの。他方、使徒の逝去後のカリフ制は、預言者ではないただの人間が担い手であり、彼らは人間が犯す過ち、不注意、失念、罪などを犯す。それは彼らが人間であり、預言者でも使徒でもないので、無謬ではないからである。使徒は既にイマーム(カリフ)が過ちを犯すことがあること、そして不正や堕落などによって人々の怒りを買うこともあることを予言されていた。いやそれどころかカリフが明白な不信仰に陥ることもあり、その場合にはそのカリフには服従の義務はなく、むしろ討伐されるべきことまで予言されているのである。ムスリムはアブー・フライラから預言者が「イマームはその背後で戦い、それによって身を守る盾に他ならない。もしイマームが畏くも尊きアッラーを畏れることを命じ正義を行うなら、それによって彼には褒賞があるが、そうしなければそれに対して応報がある。」と言われたと伝えているが、このハディースはイマームが無謬ではなく、敬神以外を命ずることもありうることを意味している。またムスリムはアブドゥッラー・ブン・マスウードから、アッラーの使徒が「私の後に専制、お前たちが嫌悪するいろいろなことが起きるだろう」と言われ、人々が「そういう時代に私たちがめぐり合わせた場合、どうするようにと貴方は命じられますか」と尋ねると、「お前たちに課された義務を果たし、お前たちに権利があることに関してはアッラーに求め祈りなさい」と答えられた、と伝えている。
「私たちは病気のウバーダ・ブン・アル=サーミトを見舞い、『アッラーが貴方を治してくださいますように。そして貴方が預言者から聞いた役に立つハディースを話してください。』と尋ねた。するとウバーダは答えました。『預言者が私たちを呼び、私たちは彼に忠誠を誓いました。彼は私たちに対して、私たちの好むことでも嫌うことでも、苦しい時も楽な時も、私たちに対する専制に対しても、権威を権威ある者から奪わないことで私たちが忠誠を誓うように言われました。そして、アッラーの許からの明証があなたがたにある明らかな不信仰をその者に見出さない限りは、と付け加えられました。』」(ハディース)
「出来る限り、ムスリムたちには法定刑の執行を回避せよ。もし抜け道があるなら彼に道を開いてやれ。イマーム(カリフ)が誤って赦免する方が誤って罰を下すよりも良い。」
(ハディース)
これらのハディースはカリフ(イマーム)が過り、忘れ、罪を犯しうることを明言している、にもかかわらずアッラーの使徒はカリフがイスラームに則って統治しており、明白な不信仰が顕わにならない限り、アッラーに背くことの命令を除き、服従を守ることを命じられたのである。それゆえアッラーの使徒の後のカリフたちは間違うこともあれば正しいこともあり、無謬ではなく、預言者でもないので、カリフ制は神的国家である、などとは言えない。そうではなくて、それは、イスラームの聖法の諸規則の施行のために、ムスリムがカリフに忠誠誓約を行う人的国家に過ぎないのである。

カリフの任期
カリフには特定の任期はない。聖法を護持し、その法規定を施行し、国事を行い、カリフの職責を果たす能力を保持している限り、カリフはその地位に留まる。なぜならばハディースに述べられた忠誠誓約の文言は無限定であり、特定の任期による制限がないからである。
「たとえお前たちの上に顔の潰れたエチオピア人の奴隷が総督に任命されようとも、聞き従え」(ハディース)
また正統カリフたちは皆、(期間の)限定のない忠誠誓約を受けており、それはハディースに述べられている忠誠誓約であり、彼らには任期の限定はなかった。彼らは皆、忠誠誓約を受けてから死ぬまでカリフの任務を担っていたのであり、それはカリフには任期はなく、(期間)無限定であり、一旦忠誠誓約がなされたなら、シムまでカリフの位に留まることに対する預言者の直弟子たちのコンセンサスとなったのである。
 但しカリフに解任事項か、罷免を義務付ける事態が生じた場合には、その時点で彼の任期は終了し罷免されるが、それはカリフ制における任期の特定ではなく、カリフの資格条件の欠格の発生なのである。忠誠誓約の文言はクルアーン、スンナ、と預言者の直弟子たちの間で確定しており、カリフ制を任期はないが、クルアーンとスンナ忠誠を誓ったもの、それはクルアーンとスンナの実践、その諸規則の施行の義務を負っており、もし聖法を護持しないか、それを施行しないならば、その罷免が義務となるのである。

カリフの罷免
カリフがその就位資格条件の一つでも失うと、イスラーム法上、カリフ位に留まることは許されず、罷免されねばならないが、その罷免の決定権を有するのは行政不正裁判所(makamah malim)のみであり、この行政不正裁判所だけがカリフがその就位資格条件を喪失したか否かを判定することが出来る。なぜならばカリフが罷免され、解任に値する事項とは、除去されるべき行政上の不正(malimah)であり、また裁判による事実認定を要する事件でもあるので、裁判官の前での認定が必要となるのである。行政不正裁判所こそ、行政上の不正を裁くために設立された法廷であり、その裁判官には行政上の不正を認定し裁く権限が付与されているのである。それゆえカリフが就位資格条件を喪失したかどうかを認定し罷免を決定するのは行政不正裁判所となるのである。但し、カリフには就位資格条件を失った場合、彼が自ら辞任すれば、それで問題は解決する。
 ムスリムたちがカリフが就位資格条件の一つを失い罷免されねばならないと考え、カリフがそれに抵抗した場合は、「もし汝らが何事であれ相争うなら、それをアッラーと使徒の許に持ち込め」(4章59節)との至高者の御言葉により、その解決は裁判に委ねられる。このケースは、「汝らと権力者」つまり、権力者と人民(ウンマ)が争った場合であり、それを「アッラーと使徒の下に持ち込め」とは、裁判、つまり「行政不正裁判所」に訴えよ、との意味になるからである。

 ムスリムが新カリフを擁立するまでの猶予期間
 ムスリムが新カリフを擁立するまでに猶予される期間は、3昼夜であり、ムスリムは忠誠誓約なしに3夜を過ごすことは許されない。最長で3夜なのである。前任カリフが死ぬか罷免された時点から、新カリフの擁立が義務となるが、そのために専念しているという条件で、擁立が3昼夜までは遅れることが許される。もし3夜を超えてもカリフを擁立できなかった場合は、更に待たれる。ムスリムたちがカリフの擁立に専念し、それでも自分たちで克服することの出来ない圧倒的な障害があって3夜の間にそれを実現できなかった場合には、義務の履行のために力を尽くしたにもかかわらず自分たちにはどうしようもない事情によって遅れるにいたったことを無念に思っているなら、彼らの罪は免ぜられる。
「アッラーは我がウンマ(共同体)から加護、忘却、強制されたことを免責された」(ハディース)
それゆえもしムスリムたちがカリフ擁立の義務の履行に従事していなかったならば、カリフが擁立されて彼らの義務が履行され消滅するまで、全員が罪に陥っているのである。カリフ擁立を怠ったことによって犯した罪に関しては、消えることはなく(最後の審判で)アッラーによる応報の罰を蒙るまで残り続ける。それは義務の履行を怠ることで、ムスリムが犯した他のあらゆる罪が罰されるのと同じことなのである。
カリフが空位になった場合に直ぐに忠誠誓約の手続に従事しなければならない典拠は使徒の直弟子たちが、使徒が逝去されたその日のうちからその埋葬よりも前に、サーイダ族の屋敷に集まりそれに取り掛かったことによる。アブー・バクルのカリフ就位の忠誠誓約はその当日に完了し、翌日には人々が預言者モスクに集まり、アブー・バクルと忠誠の誓いを交わしたのである。
 カリフ擁立のためにムスリムに与えられる最長の猶予期間が3昼夜である根拠はウマルの例である。刺し傷が元で死ぬことが明らかになった時点で、ウマルは評議員を任命し、3日と期限を決め、その3日のうちに新カリフの合意が成立しなければ反対者、不同意者は預言者の高弟であり、評議員であってもを処刑せよ、と遺言し、その執行のために50人を任命した。この件は預言者の直弟子たちが見聞きしている場で行われたが、彼らの誰もそれを非難せず、異を唱えなかったので、ムスリムがカリフを空位のままで3昼夜以上放任することが許されないことは、預言者の直弟子たちのコンセンサスとなった。預言者の直弟子たちのコンセンサスはクルアーンとスンナと同じく聖法上の典拠なのである。アル=ブハーリーはアル=ミスワル・ブン・マフラマが「私が眠りについた時、アブドッラフマーンが扉を叩いて私を起こし『あなたは眠っていたようだが私はこの3日間(つまり3夜)、殆ど眠っていない』と言った」と伝えている。そして人々が夜明け前の礼拝を済ませた時、ウスマーンの忠誠誓約が完了したのである。
 それゆえムスリムにはカリフ制の中央の空位に際しては新カリフの忠誠誓約に専心し、5日のうちにそれを完了させなければならない。カリフへの忠誠誓約に専念せず、カリフ制が滅びるままに黙殺した者は、カリフ制の消滅と黙認の時点から罪人となるのである。それが今日の状況でもあり、ムスリムは1342年ラジャブ月28日(西暦1924年3月3日)の(オスマン朝)カリフ制の廃止以来、その再興の日まで、カリフ制を再興していないことにより、有罪なのである。免責されるのは、誠実で献身的な組織と共にそのために真剣に献身している者だけであり、それによってのみ罪から救われるのである。そしてそれは「忠誠誓約をせずに死んだ者は(イスラーム到来以前の)無明時代の死に方をしたことになる」とのアッラーの使徒のハディースがその罪の深さを示している通り、大罪なのである。

第2章:補佐(全権補佐)
「補佐(muwinn)」とは、カリフがその職務を担い職責を果たす上でカリフと共にあって彼を助けるために、カリフが任命した「大臣(wuzar)」のことである。カリフの職務は多大で、特にカリフ国家が拡大するに連れてカリフが一人でそれを担うことは難しくなり、それを担い職責を果たすために、カリフを助ける者を必要とするようになった。
これらの補佐を限定なしに「大臣(wuzar)」と呼ぶことは正しくない。それはイスラームにおける「大臣」の意味内容と、民主主義・資本主義・世俗主義(ulmn)の原理に立脚する現行の人定法の政治体制や、現在我々が目のあたりにしているその他の政治体制における「大臣」の意味内容とを混同してはならないからである。
「全権委任(tafw)大臣(wazr)」、あるいは「全権補佐」とは、カリフが彼と共に統治と権力の職責を担うために任命する大臣であり、カリフは彼に自分の考えで諸事を処理し、聖法の諸規則に則り自己の独自裁量(イジュティハード)でそれを裁定するように委任する。カリフは彼に包括的な判断と代行を任せる。アッラーの使徒は「私の天の2人のwazrはジブリール(ガブリエル)とミーカーイール(ミカエル)であり、地上の2人のwazrはアブー・バクルとウマルである」(アブー・サイード・アル=フドリーが伝えるハディース) と言われた。
このハディースにおける「大臣(wazr)」の語は「助手」、「援助者」を意味しているが、それがその語源的意味なのである。聖クルアーンも「大臣」の語をこの語源的意味で使用している。至高なるアッラーは言われる。「私の家族の中から私のwazrを立てて下さい」(20章29節)つまり、「助手」、「援助者」の意味である。ハディースのwazrの語は無限定で、あらゆる問題におけるあらゆる形の「助け」、「援助」をも含みうる。その中にはカリフの職責や仕事においてカリフを助けることも含まれる。上記のアブー・サイード・アル=フドリーのハディースも統治における援助に限定されない。なぜならジブリールとミーカーイールは点におけるアッラー使徒のwazrだと言われているが、彼ら両名は彼の職責や仕事における援助とは全く無縁だからである。それゆえハディースの(wazr)語は、「私の2人の助手」という、一般的意味のみを示しているのである。そしてまたこのハディースからは補佐が複数存在することをも許している。
アブー・バクルとウマルの2人は、使徒が両者を補佐に任じたこと以外に、具体的に使徒と共に統治の職務を担ったという記録はない。使徒は特に権限の範囲を指定せずに万事において彼を補佐する権限を両者に与えていたのであり、その中に統治の諸事とその様々な仕事も含まれていたのである。アブー・バクルはカリフに就任してからウマル・ブン・アル=ハッターブを彼の補佐に指名したが、ウマルによるアブー・バクルの補佐は良く知られている。ウマルがカリフになると、ウスマーンとアリーがその補佐であった。しかし2人のうちのどちらが統治においてウマルの補佐の仕事をしたのかは明らかではない。彼ら2人の地位は使徒の許でのアブー・バクルとウマルの立場に似ていた。ウスマーンの治世にはアリーとマルワーン・ブン・アル=ハカムが彼の補佐だった。アリーはウスマーンの補佐の仕事に不満であったため、距離をおいていたが、マルワーン・ブン・アル=ハカムによるウスマーンの統治の仕事の補佐ははっきりしていた。
裁量委任の大臣が、カリフに良いことはすべて助言し、それについて彼を助ける誠実な大臣であるなら、彼はカリフにとって大いに役立つ。
「アッラーが指導者(amr)に善をなそうと御望みなら彼に誠実な補佐を授ける。彼はカリフが忘れたことは思い出させ、思い出せば、その実行を助ける。アッラーが彼にそれ以外のことを御望みになれば、彼に悪の補佐を授ける。彼はカリフが忘れても思い出させず、たとえ思い出してもそれの実現を助けようとしないしない。」(ハディース)
アッラーの使徒の時代と正統カリフの時代の補佐の研究によって、補佐には、特定の任務に対してその包括的な処理を委ねることも、全ての問題について包括的な処理を任せることも可能であることが分かった。また同様にある地域に包括的な処理権限を有する補佐を任命することも出来れば、複数の地域に跨る管轄で包括的な処理権限を有する補佐を任命することも可能である。
「アッラーの使徒はウマルを浄財の徴収に派遣された」(ハディース)
「アッラーの使徒はアル=ジウラーナの小巡礼から戻られた後で、アブー・バクルを巡礼の指揮に派遣された」(ハディース)
つまりアブー・バクルとウマルはアッラーの使徒の2人の補佐であったが、2人とも裁量委任の大臣職が要請するように包括的処理権限と代行権を序よされていた補佐(大臣)であったにもかかわらず、アッラーの使徒の治世においては全ての任務ではなく特定の任務においてのみ包括的処理を任されていたのである。ウマルの治世のアリーとウスマーンも同様であった。アブー・バクルの治世においては、ウマルによるアブー・バクルの包括的処理と代行の補佐はあまりにも目立ったので、預言者の直弟子のある者が「カリフはあなたなのかウマルなのか私たちには分からない」と言うほどであった。しかしアル=ハーフィズ(イブン・ハジャル・アル=アスカラーニー、ハディース学者、1449年没)が信憑性が高いとみなしている伝承経路でアル=バイハキー(ハディース学者、1066年没)が伝えているように、アブー・バクルはある時期にはウマルに裁判(のような特定の職務)を任せたこともあったのである。
それゆえ使徒と彼の後の正統カリフたちの伝記から分かることとして、預言者がアブー・バクルとウマルに、またアブー・バクルがウマルに対してしたように、補佐は包括的処理権を代行権を授与されるが、地域であれ職務であれ特定して補佐を任ずることも許されるのである。例えば補佐の一人を北部管轄、他方を南部管轄とすることもでき、前者を後者の役割を交代させることもできるし、カリフの補佐職の要請する形で一方にある任務、他方に別の任務を移植することもでき、特に改めて新しく任命する必要はなく。一つの任務から別の任務に移動させるだけで良い。なぜなら補佐は本来、包括的処理権と代行権を有するので、こうした職務は補佐への任命に含意されているからである。この点において補佐は総督とは異なる。総督はある地方における包括的処理権を授与されているだけなので、別の地方に移動させられることはない。それには改めて新しく任命される必要がある。なぜなら新任地(任務)は先の職務委任には含まれて居なかったからである。一方、補佐は包括的処理権と代行権を与えられているので、本来的にあらゆる職務について包括的処理と代行を任せられている以上、どの地域からどの地域に移動させられようとも、改めて任命しなおす必要はないのである。
以上から、カリフにはその代官に全ての職務における包括的処理を任せると共に、国家の全ての地方における彼の代行を委ねることができることが分かった。但しカリフには、例えばある補佐を東部諸地域、別の補佐を西部諸地域管轄とするといったように、補佐に特別な任務を課すこともできる。大臣の数が多くなった場合には管轄が重複衝突しないためにこうするのはやむをえないのである。
特に国家が拡大した場合には、カリフの必要から大臣は複数になるが、国家の全ての地域でこれらの大臣が皆、それぞれが包括的処理を行えば、彼ら全員が包括的処理と代行を委ねられている限り、任務の重複と衝突がおき、大臣たちがそれぞれの任務を行うのに支障をきたすことになる。
それゆえ我々は以下のように定めよう。
任命に関しては、補佐は国家の全ての地域において、包括的処理と代行を委嘱される。
職務に関しては、補佐は、国家の一部において、一つの任務を任される。つまり、国家は補佐毎に地域に分けられ、例えば某はカリフの東部地域の補佐、某は西部地域の補佐、某は北部地域の補佐、といった形である。
移動に関しては、補佐が、ある地域から別の地域に、ある職務から別の職組むに移動する場合、改めて新任される必要はなく、最初の任命だけで足りる。なぜなら補佐に任命した時点で本来的に、全ての職務が含意されているからである。
 
全権補佐の資格条件
 全権補佐にはカリフの資格条件が条件として課される。つまり、男性、自由人、ムスリム、成人、理性人、義人、そして代理として任された職務の適任者で有能であることである。これらの資格条件の典拠はカリフの場合の典拠と同じである。なぜならば補佐の職務は統治行為であり、「女性に自分たちの政治を任せる民は栄えることはない」とのハディース により男性でなくてはならず、奴隷は自分自身の法律行為を行う行為能力も有さないので、他人の行為を処理する行為能力は尚更有さないので、自由人でなくてはならず、「3種の者からは筆が上げられる。すなわち、子供は成人するまで、眠っている者は目覚めるまで、痴呆の者は癒えるまで。」とのハディース により、成人でなくてはならず、同じハディースの「痴呆の者は癒えるまで」と別のヴァージョンの文言「理性を失った狂人は正気に返るまで」により、正気でなくてはならず、アッラーは「汝らの中の2人の義人を証人に立てよ」(65章2節)と言われ、証人に義人であることを条件として課されているが、カリフの補佐には尚更条件として課されるので、義人でなくてはならず、またカリフを補佐し、カリフの職務を担い、統治と権力の職責を果たすことができるために、そして統治行為の適任者であることが条件となるのである。

全権補佐の職務
 全権補佐の任務は、カリフに自分が行うと決めた政務について報告することである。その後、自分の権限において行動しカリフと肩を並べないように、カリフに自分の解決案、地域や職務の決定状況について上申し判断を仰ぐ。彼の任務はカリフに判断を仰ぎ、カリフがその執行停止を命じない限り、上申したことを執行することである。
 その根拠は、補佐とはカリフが委任した事項における彼の代行者である、という事実でもある。代行者はその職務をただ自分に代行を委任した者に代わって行うだけである。それ故、補佐はカリフから独立することは出来ず、ウマルがアブー・バクルの補佐だった時に彼に対して行ったように、あらゆる行為をカリフに全て上申して判断を仰ぐのである。ウマルはアブー・バクルの判断を仰ぎ、彼の考えを執行した。とは言え、カリフに上申し判断を仰ぐことは、あらゆる瑣事にわたってカリフの許可を求めることを意味しない。それは補佐の実態と異なるのである。上申し判断を仰ぐとは、例えばある地方には有能な総督を派遣する必要があるとか、ある地方では人々が訴えている市場の食糧不足を解消する必要がある、といった全ての国政問題をカリフにブリーフィングすることなのである。あるいはカリフが把握し何が問題かを知るためにこうした事柄をただ報告するだけであり、それについて全ての詳細について記されていることを行うには、その執行許可を得る必要はなく、こうした報告だけで十分なのである。但し、この報告を施行しないとの命令が下された場合に限って、その執行は非合法となる。上申は、単なる状況報告であり、その実行の許可ではない。補佐には、カリフが執行停止を命じない限り、それを執行する権限があるのである。
 カリフは全権補佐の諸行為、諸事の処理を評定し、正しい行いは承認し、過ちは正さなくてはならない。なぜなら「イマームは牧者であり、その民草に責任がある」との臣民への責任を述べた預言者のハディースにより、ウンマ(ムスリム共同体)の諸事の処理はカリフ自身に託され、彼の裁量(イジュティハード)に委ねられているからである。カリフこそが諸事の処理を委任されており、彼が臣民に対して責任があるのであり、全権補佐は臣民に対して責任はない。補佐はただ自分が任された職務の遂行にのみ責任を負うのである。臣民に対する責任はただカリフにのみある。それゆえカリフは自分自身の義務を果たすために、補佐の仕事、政務の処理の評定の義務を負うのである。また全権補佐は時に誤りを犯すこともあるため、カリフは補佐の犯した過ちを正すためにその行為の全てを評定する必要があるのである。臣民に対する責任を果たし、全権補佐の過ちを正すというこの二つの理由から、カリフには補佐の全ての行為を評定する義務があるのである。
 全権補佐が何かを処理しカリフがそれを承認すれば、補佐はそれを加減せずカリフが承認した通りに忠実に執行しなければならない。もしカリフが翻意し、補佐が決めたことを差し戻すことで彼に反対した場合は、考慮される。もし補佐が適切に執行した決定であるか、補佐がその使途に支出した予算であれば、全権補佐の判断が実行される。なぜならそれ(カリフの補佐の決定は)は本来カリフの考えとみなされるべきものであり、カリフは既に執行した法規定、支出した予算を訂正することはできないからである。一方、総督の任命や軍の武装などそれ以外のことで補佐が決めたことは、カリフは全権補佐への反対が許され、カリフの見解が執行され、補佐の行為は取り消される。なぜならそれらの事項に関してはカリフが自分自身の行為を訂正する権利があるので、自分の補佐の行為も訂正する権利があるのである。
以上が全権補佐の職務遂行とカリフによる補佐の職務の評定の方法の説明であるが、これは撤回が許されるカリフの職務と撤回が許されないカリフの職務に対応している。なぜなら全権補佐の行為はカリフの行為とみなされるからである。その理由は、全権補佐は自分が代行を委ねられたことに関しては、カリフと同様に、自ら取り仕切ることも、執政官を任命することも許されている。なぜなら彼には執政官の資格条件を備えているからである。また行政不正裁判を自ら行うことも、代行を任ずることも許される。行政不正裁判の資格条件も満たしているからである。また戦争の資格条件も有するので、ジハードを自ら陣頭指揮することも、指揮官を任命することも許される。また補佐は自ら企画立案した案件を自ら処理することも代行者を任じて執行させることも許される。なぜなら企画立案の資格条件があるからである。
但し、だからと言って、カリフが上申を受けていた限り、補佐が行ったことをカリフが取り消すことが決して出来ないというわけではない。その意味はただ、補佐はカリフが彼に託した任務に関してはカリフと同じ権限を有するということである。但しそれは、あくまでもカリフの代行者としてであって、カリフから独立にではないのである。それゆえカリフには補佐が承認したことを差し戻して補佐に反対することも、補佐が執行した行為を取り消すことも出来る。但し補佐の行為を取り消せるのは、カリフが自ら行ったとした場合に自分で取り消すことが許される行為に限られるのである。もし補佐が適切に決定を執行したか、予算をその使途に応じて支出したのであれば、補佐が執行した後にカリフが彼に異を唱えても、そのカリフの反対に意味はなく、補佐の行為の執行が追認され、カリフの意見、異議は却下される。なぜならば、そもそも補佐の判断は本来(補佐に職務の代行を委任した責任者である)カリフの判断とみなされるのであり、そうした状況では、カリフは自分の判断を撤回したり、既に執行した行為を取り消すことはできないからである。
他方、補佐による総督、官吏、軍司令官の任命のような人事や、経済計画、軍事作戦、工業振興策などの政策立案のようなものについては、カリフにはその取り消しが許される。なぜなら、そうしたことも、(補佐の任命責任者である)カリフの考えとみなされるのであるが、それはカリフが自分で行ったとしたなら、後でそれを撤回することが許される事項なので、それにおける自分の代行者の行為であっても取り消すことが許されるのであり、こうした場合にはカリフには補佐の行為の取り消しが許される。この問題に関しては、カリフは自分の行為であれば訂正が許される全ての事項において、補佐の行為を訂正することが許されるが、自分の行為であっても訂正が許されない全ての事項においては、補佐の行為の訂正も許されない、というのが原則である。
全権補佐には、例えば情報省のような特定の行政官庁に配属されることはない。なぜなら行政実務を行うのは被雇用者(ujar)であり、執政官(ukkm)ではなく、全権補佐は執政官であって被雇用者ではなく、その職務は臣民の世話であり、被雇用者がそれをするために雇われた仕事をこなすことではないからである。
全権補佐が行政実務に直接手を下さない、と言っても、彼にはどんな行政実務も禁じられているという意味ではない。その意味は、行政補佐は行政実務を分担するのではなく、その総括が仕事だということである。 

補佐の任命と罷免
補佐はカリフの命令により、任命、罷免される。カリフの死亡に際して、補佐の任期は終了し、カリフ臨時代行の執政中を除き、その職務を継続しない。もし継続するなら、新カリフから改めて新任される必要があり、特に罷免を必要としない。なぜなら彼らの職は、彼らを補佐に任命したカリフの死によって、完了消滅しているからである。

第3章:執行大臣
 執行大臣とは、カリフが自分と国家機構、臣民、外国との仲介として、執行、実務、履行を自分の代わりに、あるいは自分に対して行うための自分の補佐として任命した大臣である。それは諸事の執行の補佐であり、その総督(wl)でもなければ、実務者(mataqallid)でもない。その職務は行政の仕事であり、統治ではない。彼の職域はカリフの発した命令を執行する内務、外務の国家機構であり、またこれらの機関から奏上されたものをカリフに伝えもする。それはカリフからの命令をカリフに代わって執行させ、カリフへの奏上を処理する、カリフと他者との仲介なのである。
 この執行の補佐はアッラーの使徒と正統カリフの治世には「書記」と呼ばれていた。その後、書簡記録管理者(ib dwn rasil)、あるいは文書記録管理者(ib dwn maktabt)と呼ばれるようになり、その後、公文書書記(ktib insh)、尚書礼(ib dwn insh)などの呼び名が定着し、その後、法学者の間では、「執行大臣(wazr tanfdh)」と呼ばれるようになったのである。
 カリフは統治と執行、人々の諸事の世話を行う為政者である。そして統治、執行、世話は行政事務を必要とする。そしてそれはカリフの側にあってカリフの職責を果たすために必要とされる行政庶務を分担する特別な機関の創設を必要とし、それは統治の職務ではなく、この行政庶務を行うためにカリフが任命するところの執行の補佐を置くことを必要とするのである。それゆえその仕事は統治ではなく、行政におけるカリフの補佐であり、彼には全権補佐とは違い、統治の職務は一切行う権限を持たず、総督や管理を任命することはなく、人々の諸事の世話をすることもない。彼の仕事はただ、統治の職務か、カリフか全権補佐が発令した行政の職務の執行のための行政実務に過ぎないのである。それゆえこの役職には「執行補佐」の名が冠せられたのであり、「大臣(wazr)」の語は語源的には「補佐(mun)」を意味するので、法学者は「執行大臣(wazr tanfdh)」、つまり「執行補佐(mun tanfdh)」と呼び習わしているのである。法学者たちは、「この大臣は、カリフと、臣民と総督との間の仲介役であり、カリフに代わってカリフの命じたことを実行し、発令したことを執行し、決定したことを処理し、総督への委嘱を報告し、軍と防衛隊を装備し、カリフに臣民と官吏からの奏上事項、また先の命令が正しく実行されるために新しく生じた事態について報告する」と述べている。この職は、あくまでも諸事の執行の補佐であり、その上に立つ総督でも、その処理を命じられた実務者でもない。この執行補佐職は現在の国家元首たちの官房長官にほぼ相当するのである。
 執行補佐は全権補佐と同様にカリフの側近であり、カリフの腹心(bina)であり、彼の仕事は統治者(カリフ)に密着している。その仕事はカリフに上申し判断を仰ぎ、昼夜を問わずカリフと密談、会合することを要する。そしてそれは聖法に則るなら、女性の職環境には馴染まない。それゆえ執行補佐は男性でなければならない。また執行補佐はカリフの腹心であるため、「信仰する者たちよ、おまえたち(ムスリム)以外に腹心をもってはならない。彼らはおまえたちの破滅になにも厭わず、おまえたちが苦しむことを望む。憎悪は彼らの口からすでに顕わになっている。だが、彼らの胸が隠すものはさらに大きい。・・・」(3章118節)との至高者の御言葉により、執行補佐は不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならない。カリフが非ムスリムを自分の腹心とすることが禁じられていることは、この聖句に明らかである。それゆえ全権補佐の場合と同じく、執行補佐もカリフから離れない側近なので不信仰者であってはならず、ムスリムでなければならないのである。
 また必要に応じ、そして執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるような任務に応じて、執行補佐の数が複数となることは許される。
 執行補佐がカリフとそれ以外の他者との仲介役になるのは、以下の4事項である。

1. 外交。カリフが直接管掌するかそれを管掌する外務省を設立。
2. 軍隊、あるいは兵団
3. 軍を除く国家機構
4. 人民との関係
これが執行補佐の行う任務の実態である。執行補佐はカリフと他の者の仲介、つまりカリフからの連絡機関、カリフへの連絡機関なのである。ただし連絡機関であるとはいえ、国家機関の職務の遂行が必要である限りにおいて、そうした職務も行うのである。
カリフは実際の統治者であり、カリフこそが自ら統治、執行、人々の諸事の世話を管掌する。それゆえカリフは常に統治機構、外交筋、人民(ウンマ)と接触していなくてはならず、法規定を定め、決定を下さし、人々の世話をし、統治機関の運営、その抱える問題、必要とすることを調べなければならず、またカリフの許には人民(ウンマ)から陳情、苦情、問題が寄せられる。またカリフは外交にも目配りが必要である。それゆえこうした職務の実際は、執行補佐が仲介し、カリフに代わってそれを執行し、またそれをカリフの許に上げるのである。カリフから統治機関に下される指令や、統治機関からカリフに提出される奏上は、その執行のためのフォローアップが必要であり、執行補佐は執行が完了するまでそのフォローアップを任とするのである。執行補佐は、カリフをフォローアップし、統治機構をフォローアップする。執行補佐は、カリフが停止を求めない限り、フォローアップを止めないが、カリフの命令には従い、フォローアップを中止しなくてはならない。なぜならカリフが統治者なのであり、彼の命令が行われなくてはならないからである。
また軍事と外交は概ね機密に属し、カリフの専権事項である。それゆえ執行補佐は軍事・外交には手を染めず、その執行のフォローアップもしない。特にカリフからその一部の分担を求められた場合は別であるが、その場合でもカリフから求められたことだけを分担し、それ以外には手を出さない。
人民の世話、陳情の処理、不正の除去などの人民との関係は、カリフとその代行の仕事であり、執行補佐の任ではない。それゆえ執行補佐は、特にカリフから関与の求めがあった場合を除き、手を出さない。その場合に執行補佐が実際にしたことはカリフの命令の履行であって、分担ではないのである。これらは全てカリフが行うべき職務の内容の一部であり、それゆえ執行補佐が行うべきことでもあるのである。
以下は、使徒と正統カリフの治世の執行補佐(当時は書記と呼ばれていた)の仕事の例である。
1. 外交
* アル=フダイビーヤの和約(この和約のテキスト自体は周知であるので省略する)に関して
 「預言者は書記を呼ばれた」  (「書記」の語は見られないが、「筆記せよ」との預言者の言葉が記録されている伝承の例)
 「(預言者は)『筆記せよ』と言われた」
 「アッラーの使徒はアリー・ブン・アビー・ターリブを呼び、『筆記せよ』と言われた」
 「(預言者は)アリーに『アリーよ、筆記せよ』と言われた」
「(預言者は)『アリーよ、筆記せよ』と言われた」
* 預言者からローマ帝国ヘラクレイオス帝への手紙
「慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名において。アッラーの僕、アッラーの使徒ムハンマドから、ローマ皇帝ヘラクレイオスへ。私はあなたにイスラームの宣教を呼びかける。イスラームに帰依しなさい。そうすれば安寧を得よう。イスラームに帰依しなさい。そうすればアッラーはあなたに二重の報償を授け給おう。しかしあなたが背くなら、あなたは臣民の罪をも負おう。『啓典の民よ、我々とあなた方の間で共通の言葉、「我々はアッラー以外を崇めず、彼に何ものの並べず、アッラーを差し置いて我々の仲間のうちの者を主としない。」の許に来たれ。もし彼らが背くなら、我々がムスリムであることを証言せよ、と言いなさい。』(3章64節)」
* ヘラクレイオス帝からのアッラーの使徒の書簡への返書。
「アッラーの使徒にヘラクレイオスはムスリムであり使徒にディーナール金貨を送ったと書き送った。アッラーの使徒はその手紙を読んで『アッラーの敵が嘘をついている。彼はムスリムではなくキリスト教徒のままだ』と言われた。」
* マンビジュの住民からのウマルへの手紙と彼の返信。
「マンビジュの住民(シリアのチグリス河畔の敵性異教徒)がウマル・ブン・アル=ハッターブに『私たちが貿易商としてあなたの土地に入るのを許し、十分の一税を徴収してください』との手紙を遣した。そこでウマルはアッラーの使徒の直弟子たちとそれについて協議し、彼らはウマルにそれを勧めた。こうしてマンビジュの民は敵性異教徒で最初に十分の一税を納めて貿易を許された者となった。」
2. 軍隊、あるいは兵団 文書から
* アブー・バクルからハーリドへのシリアへの進軍を命じた手紙
「ハーリドはヒーラに居を定めたいと望んでいた。しかし彼の許にアブー・バクルから、アブー・ウバイダとムスリム軍の援軍として、彼にシリア進軍を命じる手紙が届いた。」
* シリアの軍からウマルへの援軍要請とウマルから彼らへの返書。
「我々はアブー・ウバイダ・ブン・アル=ジャッラーフ、ヤズィード・ブン・アビー・スフヤーン、イブン・ハサナ、ハーリド・ブン・アル=ワリード、イヤーズ(サッマークにハディースを語ったイヤーズとは別人)の5人の指揮官と共にヤルムークの戦いに臨んだ。ウマルは、もし戦闘になればお前たちはアブー・ウバイダに従え、と命じていた。私たちが、私たちは死地にあります、とウマルに手紙を書き、彼に援軍を求めた。するとウマルは、『私の手許に援軍を求めるお前たちの手紙が届いた。私はお前たちに誰が最も偉大な援助者、最大の援軍の送り手であるかを教えよう。畏くも尊きアッラーである。それゆえアッラーに助けを求めよ。ムハンマドはバドルの戦いでお前たちより少ない軍勢で勝利を収められたのである。お前たちに私のこの手紙が届いたなら、彼らと戦い、私に相談してくるな。』との返書を私たちに送ってきた。そこで私たちは彼らと戦い勝利し4ファルサフにわたって彼らを殺した。」
* シリアの軍団がウマル・ブン・アル=ハッターブに「私たちは敵と遭遇したが、彼らは武器を絹布で飾っていて、それが私たちの心に恐怖を引き起こしました」との手紙を書き送った。するとウマルは「彼らが武器を絹で飾っているようにお前たちも武器を絹で飾りなさい」と返事を送った。
* 軍隊以外の国家機関 その範疇の書簡と文書
* 十分の一税について預言者がムアーズに送った手紙。
「アッラーの使徒はイエメンのムアーズに『天水か、川の水での耕作地には十分の一税、潅漑耕作地には二十分の一税』と書き送った」(ヤフヤー・ブン・アーダムが『地租の書』の中でアル=ハカムから伝えており、アル=シャアビーからも同様なハディースを伝えている。)
* 人頭税に関する預言者からアル=ムンズィル・ブン・サーウィーへの手紙。
アブー・ユースフは『地租の書』の中でアブー・ウバイダから以下のように伝えている。「預言者はアル=ムンズィル・ブン・サーウィーに、我々の礼拝を祈り、我々のキブラ(礼拝の方角)を向いて礼拝し、我々の屠殺肉を食する者はムスリムであり、その者にはアッラーの庇護とその使徒の庇護がある。マギ教徒でそれを欲する者は信仰を得た。それを拒む者には人頭税が課される。」アブー・バクルがアナスをバハレーンに遣わした時にアナスに送った浄財の義務についての手紙。「アブー・バクルはアナスにアッラーとその使徒が命じられた浄財について書き送った」(アル=ブハーリーがアナスから伝えている)
* 飢饉の年のウマルからアムル・ブン・アル=アースへの手紙
 「飢饉でアラブの地が旱魃に見舞われた時、ウマルはアムル・ブン=アースに以下の手紙を送った。『アッラーの僕にして信徒の長であるウマルからアムル・ブン=アースへ。我が命にかけて、お前は自分が肥え太っているのに、私が痩せ細っていても気にかけない。神佑あれ。』アムルは返書した。『あなたに平安あれ。さて、あなたの許に参上しました。あなたの許に参上しました。キャラバンの積荷の最初のものはあなたの許に届き、私の許には最後に届きます。私は海路でも運ぶ方策を見つけたいと思っています。』」
* ムハンマド・ブン・アビー・バクルからアリーへの背教者についての手紙
アリーの返書
アリーはムハンマド・ブン・アビー・バクルをエジプトに総督として派遣した。
ムハンマド・ブン・アビー・バクルがアリーに異端(zandiqah)について尋ね、彼らの中には太陽と月を拝む者がおり、またその他のものを拝む者もおり、またイスラームの信仰を自称する者もいる、と書き送った。そこでアリーは彼に返書を書き、異端についてはイスラームの信仰を自称する者は処刑し、その他の者は好きなものを拝むままに放置しておけ」と命じた。(イブン・アビー・シャイバがカーブース・ブン・マハーリクがその父から聞いた話として伝えている)

3. 人民に直接宛てた手紙
 預言者からナジュラーンの住民への手紙。
* 預言者のタミーム・アル=ダーリーへの手紙
「タミーム・アル=ダーリー(ラフム族のタミーム・ブン・アウス)が立ち上がって言った。『私にはパレスチナに隣人がいますが、彼らにはハブラーとアイヌーンという村があります。もしアッラーがあなたにシリアでの勝利を授け給えばその二つの村を私に下さい。』預言者が『両者はお前のものだ』と答えられると、彼は『そのことを私のために書いてください』と頼んだ。
そこで預言者は以下のように書かれた。
『慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名によって。これはアッラーの使徒ムハンマドからタミーム・ブン・アウス・アル=ダーリーへの手紙である。ハブラーとバイト・アイヌーンの両村は、平地も山も、水も農作物も、馬も牛も全て彼(タミーム)とその子孫のものであり、何者もそこで彼を侵害せず、誰も彼らに不正を為してはならない。もし不正を働き、彼らから何かを奪う者があれば、その者にはアッラーと天使と人間全ての呪いがあろう。』
アリーがそれを書き留めた。
アブー・バクルがその地の総督となると彼は彼らに以下の手紙を送った。『慈悲遍く慈愛深きアッラーの御名によって。これは地の相続者とされたアッラーの使徒ムハンマドかの秘書アブー・バクルが、ダーリー家の者たちに書き送る手紙である。何者も彼らと彼らの所有するハブラーとバイトを侵害しない。アッラーに聞き従う者は両村でいかなる悪もなさない。両者の門に閂をかけ、悪党たちから守りなさい。』」
カリフには必要に応じて書記を任命することができる。書記を任命しなければ職務を果たせないなら、任命はむしろ義務になる。預言者伝の作者たちはアッラーの使徒には約20人の書記がいたと述べている。アル=ブハーリーはその『正伝集』の中で、アッラーの使徒がザイド・ブン・サービトにヘブライ語を習い、彼らが預言者に手紙を遣した場合に読み聞かせるように命じられ、ザイドは25日にわたってヘブライ語を習ったことを伝えている。またイブン・イスハークはアブドゥッラー・ブン・アル=ズバイルから「アッラーの使徒は、アブドゥッラー・ブン・アル=アルカム・ブン・アブド・ヤグースを書記に任じ、彼が使徒に代わって王たちに返書を認めた」と伝えている。
「また預言者の許にある男から手紙が届いた。そこで彼はアブドゥッラー・ブン・アル=アルカムに『私に代わって返事を書きなさい』と命じられたので、彼は返事を書き、それを預言者に読み聞かせた。すると預言者は『良い出来だ。うまく書けている。アッラーが彼を成功させ給いますように』と言われた。」(ハディース)
ムハンマド・ブン・マスラマはアッラーの使徒の命令により、ムッラ族への手紙を書いた者であり、アリー・ブン・アビー・ターリブは条約が締結されたとき、和約が成立した時の協定文の書記であり、ムアイキーブ・ブン・アビー・ファーティマがその印璽官であった。
アル=ブハーリーはその『史書』の中で、ムハンマド・ブン・ビシャールから彼の祖父ムアイキーブについて「銀を飾り彩色された鉄のアッラーの使徒の指輪印は私の手中にあった。アル=ムアイキーブはアッラーの使徒の印璽官だった」と述べた、と伝えている。

第4章:総督
 総督とは、カリフがカリフ国家の特定の地域に対する統治者、司令として任命する者である。カリフ国家が支配する土地は下位ユニットに分割されるが、その各ユニットが地域(wilyah)であり、各地域はさらに下位ユニットに分割され、そのそれぞれが地区(amlah)である。地域を管掌する者が総督(wl)、あるいは指令(amr)と呼ばれ、地区を管掌する者は区長(mil)、あるいは知事(kim)と呼ばれる。地区も下位の行政ユニットに分割されるが、その各ユニットが街区であり、その街区(qabah)もさらに最下位行政ユニットに分割される、その各ユニットが町内である。街区の長、町内の長は、いずれも行政官と呼ばれ、その職務は行政である。
総督は統治者である。なぜならここでは総督(wilyah)とは統治(ukm)を意味するからである。アラビア語辞典『包括(al-Qms al-Mu)』には、「何かを『waliya(管掌する)』とは、『その上にwilyah(権威)あるいはwalyah(近しさ)を持つこと』、あるいは動名詞(管掌)とも言われる。wilyahとは地位khuah、指揮権imrah、権力sulnである」
 総督は統治者であるので、統治者の資格条件がその資格条件となるので、総督は男性、自由人、ムスリム、成人、正気、義人、そして適任者であることが資格条件となる。総督職はカリフか、カリフからその任命について代行を任せられた者から任命される必要があり、カリフによってしか、総督は任命されないのである。
 地域権力や司令部の、つまり総督や司令の根拠は使徒の事跡である。使徒が諸国に総督を任命し、彼らにその地方の統治権を付与したことは史実である。使徒はムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナド、ズィヤード・ブン・ラビードをハドラマウト、アブー・ムーサー・アル=アシュアリーをザビードとアドンの総督に任命された。
 使徒は、敬虔で知られた統治に優れた者、学識者の中から総督を選任し、それらの者の中から適任で、人民の心に信仰と国家への畏怖を植えつけられる者を選ばれた。
「アッラーの使徒は軍隊や遠征隊に司令を任命した時には、司令には特にアッラーを怖れることを、彼の配下のムスリムたちには善行を訓示されました。」(ハディース)
総督は彼の管区の司令でもあるので、このハディースに含意されているのである。
総督の罷免については、カリフが罷免すべきと考えるか、彼の管区の住民の大半かその代表が彼への不満か怒りを表明すれば罷免される。
それゆえ我々は以下の2つの目的で、地域住民から地域議会が選任されると定めた。
第一に、総督が管区の現実を把握する手助けである。と言うのは、彼らこそその管区の住人であり、その地について最も良く知っているので、彼らの知識と情報により、総督がその任務を滞りなく果たすことができるように助けることができるからである。
第二に必要な場合の総督の評定のためであり、もし議会が多数決で不信任を議決すればカリフは総督を罷免する。なぜならば使徒はバハレーン知事のアル=アラーゥ・ブン・アル=ハドラミーをアブド・カイス族の使節の苦情申し立てにより罷免したからである。またカリフには格別な理由なく総督を罷免することができる。使徒も特に理由なくイエメン総督のムアーズ・ブン・ジャバルを罷免されている。またウマル・ブン・アル=ハッターブも地方総督たちを理由の有無にかかわらず罷免しており、ザイヤード・ブン・アビー・スフヤーンの場合は理由を特定せず罷免し、サアド・ブン・アビー・ワッカースは人々の苦情により罷免し、「私が彼を罷免したのは無能故でも、背任のためでもない」と言った。これらの事例は、カリフは望むときに地方総督を罷免できるが、その管区の住人が苦情を申し立てたときには罷免すべきことを示している。
最初期の総督の職務は、2種類で、礼拝の職務と地租の職務であった。それゆえ歴史書は司令官たちの職権について語るときに、「礼拝の指令職」と「礼拝と地租の指令職」の二つの表現を用いている。つまり司令官は、礼拝と地租の司令であるか、礼拝だけの司令であるかのいずれかであったのである。しかし「礼拝の総督」、「礼拝の司令」の語は「人々の礼拝の先導職」だけを意味するわけではない。そうではなく、それは財務を除く全ての問題における権威を意味していたのである。つまり「礼拝」の語は徴税を除く統治行為の全てを意味していたのである。それゆえ地方総督が礼拝と地租を兼務していれば、それは即ちその視職権が包括的であったということなのであり、もしその職権が礼拝、あるいは地租に限られていれば、その職権は限定的であったのである。
これら全てにおいて限定的職権は、カリフの采配次第である。カリフはそれを地租に限定することも出来れば、裁判に限定する事もでき、また徴税、裁判、軍事を除く、といった限定も許され、国家行政、あるいは地域行政に役立つと思う何をしても許されるのである。なぜならば聖法は総督に特定の任務を定めていないが、逆に統治の全ての仕事を担うことも義務付けていないからである。ただ定められているのは、総督と指令の任務は統治と権力であること、彼がカリフの代行であること、特定の場所における司令であることだけなのである。そしてそれは使徒がなされたことだからである。それゆえカリフには職務によって、包括的な職権を授けることも、限定的な職権を授けることもできるのである。そしてそれは使徒の事跡に明らかなのであり、アムル・ブン・ハズムをイエメンで包括的職権を持つ総督に任じる一方、アリー・ブン・アビー・ターリはイエメンでの裁判権だけを授与したのであるイブン・ヒシャーム(歴史家、828年没)の『預言者伝(al-Srah)』にはアッラーの使徒がファルワ・ブンムサイクをザビードとマズハジュの諸部族の司令に任じ、浄財の徴収のためにハーリド・ブン・サイード・ブン・アル=アースを彼と共に派遣されたことが記されており、同じく同書には使徒がズィヤード・ブン・ラビードをハドラマウトに浄財の徴収のために派遣されたこと、アリー・ブン・アビー・ターリブをナジュラーンに浄財と地租の徴収のために遣わされたことが記されている。またアル=ハーキムが伝えているように、アリーはイエメンの裁判官としても派遣されている。また『全書(al-Istb)』(イブン・アブドルバッル、マーリキー派法学者、ハディース学者、1071年没)によると、使徒は、人々にクルアーンとイスラームの聖法を教え、彼らの間を裁くようにと、ムアーズ・ブン・ジャバルをアル=ジャナドに派遣されたが、同時に彼に、イエメン各地の司令たちが徴収した浄財を受け取る権限も授けられたのである。
 カリフには包括的権限を有する総督を任命することも、限定的権限のみを有する総督を任命することも許されていた。しかしアッバース朝カリフが弱体化した時代には包括的権限により地方政権が独立し、カリフにはアッラーへの祈願の中で名前を読み上げられること、貨幣に名前が彫りこまれること以外に何の実権も持たなくなってしまったことから、包括権限の授与がイスラーム国家に害をもたらす原因となったことが明らかにされている。
 総督は包括的権限を与えられて任命されることも許されるのと同様に、限定的権限を与えられて任命されることも許されるが、地方総督への包括的権限授与は時に国家に危害を及ぼすことがあるため、総督の敬神の念が弱まるとカリフからの独立を可能にさせるような事項を除いた限定的権限のみを与えて総督を任命することに決めるべきである。史実を調べるなら、そうした事項は、軍事、司法、財政である。それゆえ軍事、司法、財政に関しては、カリフ国家の他の(中央)機関と同様な(地方レベルでも)地方総督から独立のカリフ直属の機関が設立されるべきなのである。
 総督はある地方から別の地方に転勤になることはないが、一旦解任され、新たに任命されることは可である。なぜなら使徒は総督たちを罷免しているが、総督をある地域から別の地域に転勤させた事例は伝わっていないからである。また総督職は契約の一つであり、明確な文言によって成立する。そして地域、あるいは地方総督の契約は総督が治める場所を特定しなくてはならず、総督はカリフから罷免されない限り、その場所における統治の権限は存続する。それゆえもし彼が別の場所に移動させられても、その移動によって最初の管区の総督を解任されることにはならず、移動させられた場所の総督に任命されたことにもならない。なぜなら最初の管区からの解任は彼の総督職からの解任の明言を必要とし、また移動させられた土地での総督の就任にはその土地を特定した新たな任命の契約を要するからである。それゆえ総督はある土地から別の土地に移動するのではなく、前任地で解任されて、新任地で新しい総督職に任命されるだけであることになるのである。

カリフによる総督の行為の査定義務
 カリフは総督の行動を査定し、彼らを厳しく監督しなくてはならない。それはカリフ自ら行おうと、自分に代わって彼らを調査しその行状を明るみに出す者を任命してもどちらでもよい。またカリフの補佐にも自分の任地における総督の行動の監視し、自らが実見した彼らの行状あるいは、執行補佐の任務について前述したやり方で彼らを処して確認したことをカリフに報告する権限を有する。このようにカリフは常に総督の行状を注視し、追跡調査しなくてはならず、また様々な機会に彼らを一同に集め、あるいは一部を呼び出し、人民の彼らに対する苦情に耳を傾けなければならないのである。
 預言者が総督を任命する時点で、ムアーズやアブー・ムーサーに対して行われたように彼らを試され、またアムル・ブン・ハズムに対して行われたようにいかに行動すべきかを説明され、またアバーン・ブン・サイードをバハレーン総督に任命された時に「アブド・カイス族に気を配り、彼らの長を優遇せよ」といわれたように、重要な案件に注意を促されたことが知られている。また預言者は総督たちを評定し、彼らの行状を明らかにし、彼らについて持ち込まれる情報に耳を傾け、総督の収入と支出を監査されていた。
 「預言者はイブン・アル=ルトゥビーヤをスライム族の浄財徴収官に任じられた。彼が預言者の許に戻ってきたとき、預言者は彼を査問された。彼が『これはあなたに納めるもの(浄財)で、これは私に贈られた貰い物です』と答えると、預言者は、『お前が正しいなら、お前に贈り物がやって来るまで、お前は父の家にでも母の家にでも座して待っていなかったのか』と言われた。」(ハディース)
またウマルは総督たちを厳しく監視し、ムハンマド・ブン・マスラマに彼らの調査と行状の解明の任を与えた。またウマルは巡礼の季節に総督たちを集め、彼らの行動について調べ、また彼らの行状を知るため、人民の総督たちに対する苦情を聞き、彼らと地域の行政について話し合った。ウマルについて以下のように伝えられている。「ある日、ウマルは周りの者に『もし私が知っている中で最善の者をお前たちの司令に任命し、その者に正義を命じたなら、私は自分の義務を果たしたことになると思うか』と尋ねた。人々が『はい』と答えると、ウマルは『いや、私が命じた通りに彼が行動したかどうかを、私が彼の行動を見て実際に確認するまでは、違う』と言った。」
 ウマルは彼の総督や司令たちの評価に厳しく、その査定の峻厳さは証拠がなくても容疑だけで彼らの一人を罷免し、時には容疑とも言えない疑いで罷免することさえあった。ある日、そのことについて尋ねられて、ウマルは「簡単に人民に役に立つことは、彼らの司令官を別の司令官に替えることだ」と答えた。但しウマルは峻厳ながらも彼らを自由にし、彼らの統治における威厳を守り、彼らから意見を聞き、彼らの言い分に耳を傾け、もしその言い分に納得すれば、それを聞き入れることを躊躇わず、その後でその部下を誉めた。ある時、フムスの彼の司令ウマイル・ブン・サアドがフムスのモスクの説教壇で「権力者が峻厳である限り、イスラームは強靭である。権力者の峻厳さとは、剣による処刑、鞭打ちではなく、真理に則る裁き、正義の貫徹である。」と語ったとの話が彼の許に届いた。そこでウマルは彼について「ウマイルのような男が私のそばに居て、ムスリムたちのための仕事で私の手助けをしてくれたら、と思う」と称えたのである。

第5章.ジハードの司令 - 戦事省(軍部)

ジハード
 ジハードはイスラーム(帰依)の頂点であり、また外の世界へのイスラームの宣教のためにイスラームが定めた方法の基本である。そしてイスラームの宣教は国内におけるイスラームの法規定の施行に次ぐイスラーム国家の存在理由とみなされる。
 ジハードは、アッラーの御言葉の宣揚のための惟神の道における戦闘であり、戦闘には軍を要し、またそれに付随してその司令部、参謀、士官、兵士の設立、養成、その後の訓練、扶養養成を必要とし、また武器も必要となり、武器製造には工業がなくてはならない。それゆえ、工業もまた軍とジハードに不可欠なのである。それゆえカリフ国家の全ての工場は軍需産業を基礎として築かれねばならないのである。
 また内政の安定は戦闘における軍の士気を高めるので、内政が不安定であるようなら、軍はジハードに出陣する以前に治安の確保に専念しなくてはならない。背後の国内の治安が乱れているままに出征したとしても、軍の戦闘能力は低下してしまうからである。
 また他国との外交関係も、イスラームの宣教のための基本前提となる。
 それゆえこの4省庁、つまり、軍、治安、工業、外交は、ジハードと関連するため、カリフがその司令を任命する統合領域とされることが出来るが、これらの省庁を分離し、各省庁にそれぞれ長官を任命し、軍に司令、指揮官を任命することも許される。なぜならば、アッラーの使徒は戦争において軍司令官たちを任命されたが、工業は彼らの管轄ではなく、工業には使徒は別の者を配されたからである。警察、巡査、強盗、窃盗の処分などの治安部門も同様であるが、外交部門も同じで、それぞれの長官を任命できる。アッラーの使徒からの同時代の王や諸侯への書簡もそれを示している。
 これらの諸省庁のそれぞれに別々の責任者をおくことができることには、以下のような典拠がある。
1. 軍
使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命し、更に彼が殉教した場合の後任の司令官たちも任命された。イブン・サアドはアッラーの使徒は「指揮官はザイド・ブン・ハーリサであるが、彼が殺されればジャアファル・ブン・アビー・ターリブが指揮を取り、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハが後任となる。彼も殺されるようムスリムたちの間で納得のいく者を一人選んで、その者を自分たちの長として上に立てよ。」と言われたと伝えている。またアル=ブハーリーもアブドゥッラー・ブン・ウマルが「アッラーの使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命した・・・」と伝えている。またアル=ブハーリーとムスリムはアブドゥッラー・ブン・アル=アクワウから「私はザイドと出陣した。彼は我々の指揮官に任命されていた」と述べたと伝えている。またアル=ブハーリーとムスリムはアブドゥッラー・ブン・ウマルが「預言者は遠征軍を派遣され、ウサーマ・ブン・ザイドを軍の司令官に任命された。ところが一部の者が(若輩の)ザイドが司令官であることを批判した。そこで預言者は『お前たちは彼が司令官であることを批判しているが、以前にも彼の父(ザイド・ブン・・)を司令官とすることを批判した。アッラーによって彼は司令官に適任であったのに・・・』と言われた」と伝えている。預言者の直弟子たちはムウタの戦いを「司令官たちの戦い」と呼んでいた。ムスリムはブライダが「アッラーの使徒は軍や遠征隊に司令官を任命された時にはその司令官に訓告された・・・」と言ったと伝えている。
* アブー・バクルは背教者戦争とヤルムークの戦いでハーリドを総司令官に任じた。カリフは言った。「ハーリド・ブン・アル=ワリードを人々の司令官に任命した。『マディーナの援助者たち(anr)』の司令官にはサービト・ブン・カイス・ブン・シャッマースを任じたが、ハーリドは全体の総司令官である。」
アブー・バクルはシリアの全軍をハーリドの下に糾合した。イブン・ジャリール(アル=タバリー)は「アブー・バクルはイラクにいたハーリドに、シリアに向かい、シリアにいる軍の指揮を執るようにとの書簡を送った」と伝えている。ウマルがシリアの全軍をアブー・ウバイダの下に糾合した時に同じことをしたのである。イブン・アサーキルは「彼(アブー・ウバイダ)はシリアで総司令官(amr al-umar)と最初に命名された者である」と伝えている。

2. 治安
「カイス・ブン・サアド(イブン・ウバーダ・アル=アンサーリー・アル=ハズラジー)の預言者にとの関係は、王侯と警察長官のようであった。」(ハディース)
「カイス・ブン・サアドの預言者との関係は、王侯と警察長官のようであった。アル=アンサーリーは『つまり彼の身辺警護をつかさどっていた』と述べている」(ハディース)
「アッラーの使徒は、騎士であった私(アリー)とアル=ズバイルとアブー・マルサドを派遣し『ラウダ・ハージュ(地名。アブー・アワーナの伝承。他伝ではアブー・ハーフ)に行きなさい。そこにハーティブ・ブン・アビー・バルタアから多神教徒に宛てた手紙を隠し持った女性がいるので、彼女を私(預言者)の下に連行せよ。』と言われた。そこで我々は馬で出発し、アッラーの使徒が我々に言われた所でラクダに乗った彼女を見つけた。ハーティブ・ブン・アビー・バルタアはマッカの多神教徒たちにアッラーの使徒が彼らを急襲すると知らせる手紙を書いていた。我々が『手紙はどこだ』と詰問すると、彼女は『私は手紙など持っていません』と答えた。我々は彼女のラクダを停めて彼女の積荷を調べたが何も見つからなかった。私の二人の同僚(アル=ズバイルとアブー・マルサド)は『彼女は手紙を持っていないようだ』と言ったが、私は『アッラーの使徒が嘘を言われたことは一度もない。誓って、お前が手紙を差し出さないなら、お前を身ぐるみ剥いで調べる』と言い、彼女は布で頭を覆っていたのでその頭巾に触れた。そこで彼女は手紙を差し出した。そこで我々は彼女をアッラーの使徒の許に連行した。」(ハディース)

3. 工業
 アッラーの使徒は投石器と戦車の製造を命じられた。
「アッラーの使徒はターイフの町の住民を包囲され、17日間にわたって彼らに投石器を向けられました」(ハディース)
「預言者はターイフの住人に対して投石器を向けられた」(ハディース)
また『アレッポの行跡(al-Srah al-alabyah)』の著者(Nr al-Dn al-alab, 歴史家、1635年没)は「サルマーン・アル=ファーリスィーが『我々はイランでは城砦を攻めるときには投石器を建造して我々の敵を攻撃するのです』と言って預言者に投石器を教えたのである。サルマーンは自らの手でそれを建てたと言われている。」と述べている。
「ターイフの城壁の崩壊の日、アッラーの使徒の直弟子たちの一部は戦車の下に身を隠してターイフの城壁に焼き討ちをかけた。しかしサキーフ族は彼ら(預言者の直弟子たち)に灼けた鉄輪を浴びせかけたので、彼らが戦車から脱出したところ、サキーフは彼らに矢を射かけ、彼ら(預言者の直弟子たち)の多くを殺した。」
 サルマーンが投石器を教えた、そして自らの手でそれを製作したとも言われるが、それには、預言者がそれを命ずる必要があった。『アレッポの歴史(al-Srah al-alabyah)』の「預言者に投石器を教えた」との表現に着目しなくてはならない。それは「預言者に投石器を作るように命ずるよう示唆した」という意味なのである。これらの伝承から、軍需産業はカリフの責任であるが、それを組織し、実行するにあたっては望みの者に手助けを求めることができる。それには司令官である必要はなく、担当官(mudr)であればよい。サルマーンも軍需産業の司令官であったわけではなく、投石器作成を担当しただけであり、自らもおそらく働いたのである。
軍需産業は義務である。なぜなら「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備え、アッラーの敵と汝らの敵、そしてお前たちは知らないがアッラーがご存知のそれ以外の他の者たちを恐れさせよ」(8章60節)との至高者の御言葉で、威嚇(irhb)が求められているからである。そしてこうした威嚇は、軍備によってしか可能ではなく、軍備は工業の存在を要請するからである。それゆえこの節は付帯的必要の指示、あるいは「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則から、軍需産業の育成の義務を示しているのであり、またジハードの義務の典拠もその付帯的必要の指示により工業育成の義務を示しているのである。
アッラーが育成を国家に義務付けられた工業は軍需産業には限られない。カリフ国家が育成すべきその他の工業は、『カリフ国家』の「財政」章に以下のように述べられている。
 「工業:国家は人々の福利を実現するために2種類の工業を育成しなくてはならない。
第1種:公共財そのもの自体に関わる工業。例としては、石油採掘精製工場等の鉱物の発掘、精製、溶鉱工業など。この種の工業は資源そのものが公共財でムスリム全体の共有財産であるので当該の資源に従い公共財となり、その工業全体も公共財となり、国家がムスリム全体を代行して運営する。
第2種:重工業、武器製造に関わる工業。これらの工業は私的所有物であるので、私有財産であっても構わない。しかしこれらの工場、工業は莫大な資本を必要とするので個人では資本調達が困難である場合が多く、また今日の重火器は使徒とその後の正統カリフの時代のような個々人が所有する私的武器とはみなされず、むしろ国有化されているので、資本調達も国家が行うことになる。なぜなら自国民の庇護は国家の義務であるが、特に武器が恐ろしいほどに発達し、その原料調達が難しく膨大なコストを要するようになった今日では、軍需産業や重工業の育成は国家の義務となるのである。但しそれは個人がこうした工業を興してはならないということを意味しない。」
これらの工業の育成は国家の義務、つまりカリフの義務であり、カリフはその総裁を任命するが、総裁は自らそれを経営するか代行者に任せるかのいずれかを選ぶことができる。

4.外交
 既に述べた通り、カリフと外国との仲介としての外交は、執行大臣の要務の一つである。
 使徒とその後の正統カリフの治世の先例では、使徒と正統カリフたちは書記を、つまり執行大臣を介して自ら直接外交を執り行っていた。フダイビーヤの和議のための交渉や、和平協定の締結などを行っていたのは、使徒自身であった。ウマルはペルシャ皇帝ホスローの使者が使徒の許に到着し、使徒を探していたとき、使徒がマディーナの入り口で眠っているのを彼が見つけた、と伝えている。
 カリフには執行大臣を介して外交を自ら執り行うこともできるし、国家の他のどの機関とも同じく、外交を管掌する担当官(mudr)を任命することもできる。
 そしてこれらの4省庁はジハードの司令の省庁に統合することも可能である。なぜならその課題は相互に関連しているからである。
 また既述の通りの使徒の前例に従って分立させることも可能である。これらの省庁の拡大と、特に我々が今日、目にしているところの、軍事部門、国内問題、諸国家とその手先、売国政治家層、犯罪の種類の増大、及び国際関係の複雑化、そして工業の多様化と技術の進化に伴い、ジハードの司令官の権限では処理しきれなくなってきている。そして国家の内部に、軍事力の中枢があることは、その敬神の念が弱まると、国家に害を及ぼす。これらの全てを考慮し、我々は、これらの諸省庁を以下のように国家機構の独立の諸機関としてカリフに直属する別個の省庁とすることに決めたい。
1. ジハードの司令官 -戦事省(軍部)(dirah arbyah)
2. 内務省(dirah amn dkhil)
3. 工業省(dirah inah)
4. 外務省(dirah khrijyah)

戦事省
戦事省(dirah arbyah)とは、国家機関の一つであり、その長は「ジハードの司令(amr)」と呼ばれる。ジハードの担当官(mudr)ではない。それは使徒が、ジハードの指揮官たちを司令と呼んでいたからである。
「指揮官はザイド・ブン・ハーリサであるが、彼が殺されればジャアファル・ブン・アビー・ターリブが指揮を取り、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハが後任となる。彼も殺されるようムスリムたちの間で納得のいく者を一人選んで、その者を自分たちの長として上に立てよ。」(ハディース)
「私(アブドゥッラー・ブン・アル=アクワウ)はザイドと出陣した。彼は我々の指揮官に任命されていた」(ハディース)
「預言者はマウタの戦いの遠征軍を派遣され、ウサーマ・ブン・ザイドを軍の司令官に任命された。ところが一部の者が(若輩の)ザイドが司令官であることを批判した。そこで預言者は『お前たちは彼が司令官であることを批判しているが、以前にも彼の父(ザイド・ブン・ハーリサ)を司令官とすることを批判した。アッラーによって彼は司令官に適任であったのに・・・』と言われた。」(ハディース)
預言者の直弟子たちはムウタの戦いを「司令官たちの戦い」と呼んでいた。
「アッラーの使徒は軍や遠征隊に司令官を任命された時にはその司令官に訓告された・・・」(ハディース)
 戦事省は軍事に関わる万事、軍隊、兵站、兵器、軍事物資、武装など、及び、国防大学、軍事、使節団、必要なイスラーム教養、軍隊の一般教養、戦争と兵站に関わることを管掌する。敵性不信仰者たちの間にスパイを放つことも戦事省の権限に含まれ、そのための部局は戦事省に併設される。その典拠は使徒の前例から知られる。
 これらは全て戦事省が管掌し、統括する。その名称は戦争と戦闘に関連している。戦争は軍を必要とし、軍はその兵站、司令、参謀から仕官と兵卒に至る組織化を要する。そして軍の組織化は装備と肉体的訓練、そして進歩に見合った様々な兵器の操縦法を含む兵術的訓練を必要とする。それゆえ戦術、軍事教練は戦争の必要事項の一つであり、兵術と兵器操縦の訓練も戦争の要件の一つなのである。 
 アッラーはムスリムに、イスラームのメッセージを全世界に広める使命の担い手たる名誉を授け、それを担う方法が宣教(dawah)とジハードであると定められ、ジハードを彼らに課された義務とされ、軍事訓練をも義務とされた。
 15歳になった男性ムスリム全員にジハードに備えて軍事訓練が課される。一方、徴兵は連帯義務である。
 軍事訓練の典拠は至高者の御言葉「試練が無くなり、宗教が全てアッラーに帰属するようになるまで、彼らと戦え」(2章193節)
とアブー・ダーウードがアナス経由で伝えるアッラーの使徒の言葉「多神教徒たちとお前たちの財産と身体と舌でジハードを戦いなさい」である。今日の戦闘は聖法によって求められている敵の支配、国々の解放が実現する形でそれが遂行されるためには軍事訓練が必要なのである。それゆえ「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則に則り、ジハードが義務であるのと同じく軍事訓練も義務なのである。なぜなら「戦え」は包括的であり、戦闘を命じていると同時に、戦闘を可能とすることをも命じているので、戦闘の要求はそれ(軍事訓練)も含んでいるからである。それよりも、至高者は「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備えよ」(8章60節)と言われているが、訓練と高度な軍事経験こそ、「武力を備えること」なのである。なぜなら戦闘が可能になるにはそれが不可欠であるからであり、それ(軍事訓練)も武器や軍事物資のように「武力」に数えられるものの一部だからである。
 徴兵とは、人々に武装を施し恒久的に軍の兵士に編入することである。つまりそれはジハードが要する条件を満たしてジハードを実際に遂行するジハード戦士の創出であり、それは義務なのである。なぜなら、実際に敵襲があるか否かにかかわらず、ジハードの遂行は、恒久的継続的義務だからである。それゆえ徴兵はジハードの規定に含まれる義務なのである。
 15歳との年齢制限は以下のハディースである。
「イブン・ウマルが私(ナーフィウ)に言った。『ウフドの戦いの日、14歳だった私はアッラーの使徒に出征を申し出たが許可されなかった。塹壕の戦いの日、15歳になった私が出征を申し出たところ許可された。』
私(ナーフィウ)はウマイヤ朝カリフウマル・ブン・アブドルアズィーズを訪れ、彼にこのハディースを伝えた。すると彼は『まことにそれは子供と大人の境界である』と言い、臣下の区長たちに、15歳以上のものを徴兵するように書き送った。」」
 つまり彼らに軍の登記から兵士の給料を算定するように区長らに命じたのである。
 我々もこれを採用しており、15歳に達した者には軍事訓練が課されるのである。

軍の分類
 軍は2種類に分かれる。
第一は予備役であり、それは武器を取れる全てのムスリムである。
第二は常備軍で、彼らには公務員と同じく、国家予算から特定の給料が支給される。
 これはジハードが義務であることの帰結である。全てのムスリムにジハードが課されており、その訓練も課されているので、全てのムスリムは予備役となる。ジハードは彼らの義務だからである。彼らの一部を常備軍とすることの典拠は、「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則である。恒久的にジハードを行い、イスラームの土地とムスリムの財産を不信仰者から守ることは、常備軍がなければできないからである。それゆえイマームには常備軍の創設が義務付けられるのである。
 この常備軍に公務員と同じく給料を支払うことについては、非ムスリムについては自明である。なぜなら不信仰者はジハードが求められていないが、申し出れば受け入れられるのであり、その場合に給料を与える典拠は以下のハディースである。
「預言者は彼と共に戦ったユダヤ教徒の一団に(戦利品を)分配された」
「サフワーン・ブン・ウマイヤは預言者と共にフナインの戦いに参戦したが、その時まだ多神教徒だった。しかし預言者は彼にフナインの戦いの戦利品を『懐柔された者』と共に彼にも分配された。」 である。
 またこのハディースに基づき、不信仰者がイスラーム軍に入ること、そしてイスラーム軍に入ったことで彼に給料を与えることが許される。また用益(manfaah)に対する代償との契約との賃契約の定義が、賃契約は雇用者が被雇用者から用益を完済させられるあらゆる用益に対して許されていることを示しているが、軍役と戦闘は用益の一種なので、軍役と用益に対してある者と賃契約を結ぶ(雇用する)ことは許されるのである。あらゆる用益に対して賃契約が成立するとの一般的根拠が、不信仰者との軍役と戦闘に対する賃契約の合法性の根拠となるのである。
 以上が非ムスリムへの給与の支払いの合法性の根拠であったが、ムスリムに関しても、ジハードが崇神行為(ibdah)であったとしても、ムスリムと軍役と戦闘に対して賃契約を結ぶことは、賃契約の合法性の一般的根拠により許されており、また崇神行為の遂行に対する賃契約がその用益が(崇神行為の)実行者以外に及ぶ場合には許されているためやはり許されている。その典拠は、「お前たちが賃金を得るのに最も相応しいものはクルアーンである」とのハディースである。
それゆえムスリムがクルアーンの教授、礼拝の先導、礼拝の呼びかけ等の崇神行為に対して賃契約を結ぶことが合法なのと同じく、軍役と戦闘に対して賃契約を結ぶことも合法なのである。これらは全てその用益が行為者以外にも及ぶ崇神行為だからである。ジハードが義務である当人のムスリムとのジハードに対して賃契約を結ぶことの許可についてはハディースの中にその明白な典拠がある。
「戦士には報償があり、賞金を払う者には、彼自身の報償と、戦士への報償がある」(ハディース)
このハディースは自分の代わり戦ってもらうことで、他人に賃金を払う、つまり戦いのために人を雇用することの許可を示している。
「私の共同体の中で、戦って懸賞を得て、敵を撃退する者は、我が子に授乳して報酬を貰ったムーサーの母のようなものである」(ハディース)
ここでの報酬(ajr)は賃金(ujrah)の意味である。という訳で、兵隊に公務員のように給与を懸賞とするのである。
 ムスリム軍は、たとえ給料を貰っていたとしても、彼らがジハードを行ったことによってアッラーの御許で報償があるのである。それは前述のアル=ブハーリーの伝えるクルアーンを教えることで、それが敬神行為であるにもかかわらず賃金を得ても良い、つまりクルアーンを教えるとの意図に応じてアッラーの御許で報償があることを示すハディースによるのである。
 イスラーム軍は複数の軍団から構成される統一軍である。これらの軍団のどの軍にも番号がつけられ、例えば、第1軍団、第3軍団のように呼ばれるか、地域や地方の名前にちなんで、例えばシリア軍団、エジプト軍団、サンアーゥ軍団などと呼ばれる。
イスラーム軍は特設の軍営に配属される。どの軍営にも、一軍団であれ、軍団の一部であれ、あるいは複数の軍団であれ、兵士の集団が配属される。ただしこれらの軍営は複数の地域に置かれなければならない。一部は軍事基地の中に置かれ、一部は常に移動する移動キャンプとされ、攻撃軍となる。どの軍営もアル=ハバーニヤ軍営などの固有名をつけられ、固有の軍旗を持つ。
こうした手続きは、軍団の名前を地域に因んで命名するか、固有の番号で呼ぶか等の、カリフの意見と判断(イジュティハード)に任され許可事項であるか、国防のために国境に軍団を配置したり、戦略的に重要な地の軍営に軍を配置する等、国防のために必要なことのように「それなしに義務が履行できないこと」の範疇に入るかのいずれかである。
ウマル・ブン・アル=ハッターブは軍営を地域ごとに分け、パレスチナに一兵団(failaq)、モスルに一兵団、そして国家の中枢部に一兵団を置き、自分の手許の難攻の地に指令待ちの臨戦態勢の一群団を置いていたのである。

カリフこそが軍の総帥
カリフが軍の総帥であり、カリフが参謀総長を任命し、カリフが師団長、旅団長を任命する。それ以下の将官に関しては師団長、旅団長が任命する。参謀に関しては、その戦事教養のレベルに応じて参謀長が任命する。
それはカリフ職とは、聖法の諸規定を施行し、世界に宣教を弘布する世界のムスリム全ての総首座であるが、世界に宣教を広める方法の基本はジハードなので、カリフ自身がジハードを管掌しなくてはならないのである。なぜならカリフ就位契約はカリフ個人に対して結ばれるので、他者がその代わりを務めることは許されないからである。それゆえジハードの諸事項の管掌はカリフの大権である、他者がそれを行うことは許されない。たとえジハードは全てのムスリムが行うべきことであったとしても、ジハードを自ら行うことと、ジハードを指揮することは別である。ジハードは全てのムスリムの義務であるが、ジハードの総指揮はカリフのみの大権なのである。
カリフが自分の行うべきことを自分に代わって実行してくれる者に代行を委任することは、カリフがそれを照覧し監督しているという条件では許されるが、カリフの照覧も監督もなく代行者が独立するような無条件な代行委任は許されない。ここで言う「照覧(iil)」とはカリフ補佐の「上申(mulaah)」の類とは違う。ここでの「カリフの照覧」とはカリフの代行の行為がカリフによる彼の監督の下、統括下にあることである。カリフの監督と照覧の条件の下でのみ、カリフは軍の指揮を望む者に委ねることが許される。しかし彼の照覧がない名ばかりの形式であれば許されない。なぜならカリフ就位契約はカリフ個人に対して他締結されるので、彼自身がジハードの諸事を管掌しなければならないのである。
それゆえイスラーム以外の政治体制で、国家元首が軍の最高司令官である、と言われながら、形式上だけ最高司令官とされ、実際には軍を牛耳る別の司令官の任命が行われているのは、イスラーム的見地からは無効である。それは聖法の認めない議論である。そうではなく、聖法は軍の実際の司令官がカリフであることを義務付けている。但し総指揮(qiydah)以外の戦術的、行政的事項に関しては、総指揮とは異なり、カリフは実際に監督下に置く必要なく代行者を任命することが許される。
使徒は自ら実際の軍の指揮を執られたのである。彼は戦闘の指揮も執られる一方で、自分が参加しない遠征隊の司令官を任命され、マウタの戦いでのことのように、時には司令官が戦死した場合に備えて司令官の後任まで任命されたていたのである。アル=ブハーリーはアブドゥッラー・ブン・ウマルが「アッラーの使徒はマウタの戦いでザイド・ブン・ハーリサを司令官に任命した。そしてアッラーの使徒は『ザイドが殺されればジャアファル、彼も殺されるなら、アブドッラー・ブン・ラワーハ』と言われた」と伝えている。カリフこそが、軍司令官の任命者であり、彼が師団長を任命し、彼らに軍旗を授け、旅団の司令官を任命するのである。マウタの戦いの軍団や、ウサーマの軍団のようにシリアに派遣された軍団は、ウサーマが軍旗を授けたことから分かる通り師団であり、マッカの周辺に派遣されたサアド・ブン・アビー・アル=ワッカースの遠征隊のようなアラビア半島の中で出征し帰還していた遠征隊は、旅団に相当する。そしてそれらの事跡は、師団の司令官、旅団の指揮官はカリフが任命していたことを示している。一方、軍団の司令官、遠征隊の指揮官以下の人事については、使徒が任命されたとの記録はなく、それは使徒が戦闘におけるその任命を上官たちに任せられていたことを示している。他方、参謀総長は戦術面の責任者であり、軍の指揮官と同様にカリフに任命されるが、カリフの命令下にはあっても、カリフの直接の監督下に置かれることなくその任務を遂行するのである。

第6章.治安
 治安はその長は内務省長官(mudr dirah amn dkhil)を長とする内務省が司る。この省は各地域に地域警察長官を長とする支部を置くが、地域警察長官は行政上は内務省に属するが、執行においては地域総督の下におかれる。その組織は法令によって定められる。
内務省は治安に関わるあらゆる事項を管掌する省であり、警察を通じて国内の治安の維持を司り、警察が治安維持の主要な手段である。内務省は任意のいかなる時にも如何様にも警察を使用する権限を有し、その命令は即座に執行される。軍の協力が必要な場合は、内務省は問題をカリフに上奏しなくてはならず、カリフは軍に内務省への協力、あるいは治安の維持のために内務省への兵士派遣による助勢、あるいは適切とみなす別の何事であれ命じることができ、また求めを拒絶し、警察のみで処理するよう命ずることもできる。
警察は、カリフ国家に服属する成人男性から構成されるが、女性も内務省の任務に関わる女性の需要を満たすために警察に加わることが許される。聖法に則りこの目的を達するための法令が発布される。
警察には、憲兵(軍警察)と、統治者に従属する警察である。警察は制服と治安維持のために目を引く徽章を付ける。
 アル=アズハリー(アラビア語辞書Tahdb al-Lughahの著者、 980年没)は、「shurah(警察)とは、全ての選良を指し、shura(警察官)もその一つである。なぜならそれ(shura)は軍の中の選良だからである。それは軍の中の最前列とも言われ、また彼らはその制服と装備で人目を引くのでshura(警察)と呼ばれる、とも言われる。」これはアル=アスマイー(アラビア語学者、831年没)の説でもある。また『辞典(al-Qms)』には「『警察(shurah)』は集合名詞『警察官(shura)』の単数形であり、殉教を覚悟した最前線の小隊、地方総督の手勢の集団であり、その構成員は、turk(トルコ人)、juhan(ジュハイ族)と同じ音韻でshur(警官)と呼ばれる。人目を引く印で自分たちを目立たせることから、『警察(shurah)』と呼ばれる。」とある。
憲兵とは軍の規律維持のために軍を先導する徽章を有する軍の小隊である。それはジハードの司令官の指揮下にある、つまり戦事省の指揮下の軍属である。一方、統治者に属する警察は、内務省の指揮下にある。アル=ブハーリーはアナスから「カイス・ブン・サアドの預言者にとの関係は、王侯と警察長官のようであった。」と伝えている。
カリフは、国内治安を維持する警察の全機構を軍の一部とする、つまり戦事省の指揮下におくことも許され、独立の省庁とする、つまり内務省の所管とすることも許されるが、我々はこの部門、つまり治安維持のために統治者に属する警察が軍から独立し、他の国家機関と同様にカリフに直属する独立の機関として内務省の指揮下に置かれることを選ぶ。それは前述のカイス・ブン・サアドのハディースにも即応しており、またジハードに関わる4つの省庁(戦事省、内務省、工業省、外務省)が互いに独立し、各個がカリフに直属することにし、全体で一つの機関とはしないこと(戦事省に統合しない)を選択したのと同様である。このような次第で警察は内務省に属することになるのである。

内務省の諸任務
 内務省の仕事は国内の治安の維持である。国内の治安を脅かす様々な物事がある。それには、イスラームからの背教、国家に対する反逆がある。国家への反逆には、ストライキや国家の重要施設を占拠し立て籠もり、私有財産、公有財産、国有財産を侵害するような破壊活動と、武装蜂起による反乱がある。
 また財物を奪うために人々を襲い殺める盗賊、強盗も国内の治安を脅かす。同様に窃盗、置き引き、ひったくりなどの財物への侵害、暴行、傷害、殺人など人身への侵害、誹謗中傷、誣告、姦通など名誉の侵害も国内の治安への脅威である。
 また疑わしい人物をマークし、共同体(ウンマ)と国家に対するその危害を防ぐことも内務省の任務である。
 以上が、国内の治安を脅かす主要な事項であり、内務省はこうした全ての脅威から国家と人民を護るのである。それゆえ背教者は悔悟を求めても撤回しなければ死刑判決を受けるが、処刑執行は内務省が行う。背教が集団であった場合は、イスラームに帰順するように通信連絡し、悔悟、帰順し、聖法の規定に従うなら、過去は問わず免罪されるが、あくまでも背教に固執するなら討伐される。もし小集団で警察だけで討伐が可能なら、警察が彼らを討伐するが、もし大集団で警察が鎮圧できないようなら、警察はカリフに兵士による助勢を要請しなくてはならない。また兵士でも十分でなければカリフに軍隊の出動による救援を要請しなくてはならない。
 以上は、背教者についてであったが、叛徒に対しては、彼らの反逆が武装闘争に至らず、ストライキ、デモや国家の重要施設を占拠し立て籠もり、私有財産、公有財産、国有財産を侵害、毀損するような破壊活動に留まっているなら、内務省は、これらの破壊活動の鎮圧のために警察力を用いるだけで足りる。しかし警察が鎮圧できないようなら、これらの国家に対する叛徒が行う破壊活動の鎮圧のためにカリフに兵士の助勢を求める。
 国家への叛徒が武装し軍営を敷き、内務省が警察だけで彼らを帰順させ、蜂起と反乱を鎮圧させることができないなら、叛徒と戦うために必要に応じて、兵士か軍隊による警察への助勢をカリフに要請する。叛徒を討伐する前に彼らと話し合い、彼らの言い分を聞き、彼らに帰順、団結への復帰、武装解除を求め、それで叛徒が応えて悔い改め、帰順し、聖法の規定に従うなら、彼らを放免する。しかし帰順を拒み、あくまで反抗と戦闘に固執するようなら、イマーム・アリーがハワーリジュ派と戦ったように、殲滅と殺戮のためではなく懲戒のために、彼らが帰順し、反乱を止め、武器を捨てるまで彼らと戦う。彼らには先ず帰順を呼びかけ、それに応えれば放免するが、あくまでも反抗を続けるなら、彼らが帰順し、反乱を止め、武器を捨てるように、懲戒のために彼らと戦うのである。
 盗賊とは強盗団であり、人々を襲い、道行く人を脅かし、財物を奪い、人を殺める徒党であり、内務省は彼らの逮捕のために警察を遣わし、「アッラーと彼の使徒と戦い、地上で害悪をなして回る者の報いは、殺されるか、磔にされるか、手足を互い違いに切断されるか、土地から追放されるかにほかならない。」(クルアーン5章33節)との聖句が定める通りに、処刑と十字架、あるいは処刑、あるいは手足の交互切断、あるいは国外追放の刑罰を科す。
 これらの輩との戦闘は国家に反逆する叛徒との戦闘とは違う。叛徒との戦闘は懲戒の戦いであったが、強盗との戦闘は処刑と磔刑のための戦闘であり、向かってくる者も逃げる者も襲われ、聖句に記された通りに処されるのである。つまり強盗の中で殺して金品を奪った者は処刑された上で死体を十字架に晒され、殺しただけで盗みはしなかった者は処刑されるが死体は十字架には晒されず、金品を奪っただけで殺人は犯さなかった者は手足を交互に切断されるが処刑はされず、武器をみせつけ人々を脅したが盗みも殺しもしなかった者は処刑されず、十字架にもつけられず、手足を交互に切断されることもなく、(カリフ)国家の内部ではあるが居住地から遠く離れた土地に追放されるのである。
 内務省は治安の維持のために警察のみを用い、警察以外の手を借りない。但し、警察が治安を護ることができない場合に限って、必要に応じて、カリフに別の兵士か、軍隊の女性を要請する。
 窃盗、置き引き、ひったくりなどの財物への侵害、暴行、傷害、殺人など人身への侵害、誹謗中傷、誣告、姦通など名誉の侵害については、内務省は、警戒、護衛、巡回によってその防止に努め、更に身体、財産、名誉への侵害者への司法の判決を執行する。これらは全て警察力以外を要しない。
 預言者がカイス・ブン・サアドを自らの側近の(baina-yadai-hi)警察長官の地位につけられたとのアナスの伝える前出のハディースに基づき、警察には体制の維持、治安の監督、そのための執行面での全ての行為がゆだねられている。なぜならこのハディースは警察が統治者たちの側近であることを示しているが、統治者の側近であるとは、統治者が必要とする聖法の施行、体制の護持、治安の維持のための執行のマンパワーを警察が提供するということである。また警察は夜の巡回、盗人の追跡、極道や悪党の捜査も行う。かつてアブドッラー・ブン・マスウードはアブー・バクルの治世に夜警隊の司令官であった。ウマル・ブン・アル=ハッターブは(カリフでありながら)自ら夜警も兼務した。彼には彼の解放奴隷が同行し、おそらくアブドッラフマーン・ブン・アウフも同行することがあった。それゆえ今日、イスラームの地の一部で、小店主たちが自警団を組織して夜回りをしたり、小店主たちの費用負担で国家が治安業務を行っているのは誤りなのである。なぜならそれは夜警の任務に含まれ、国家の義務、警察の任務の一つであり、人々は責任を負わず、費用負担を求められるべきではないからである。
「疑わしい人物(ahl raib)」とは、国家と社会、ひいては個々人の存在への危害を及ぼす恐れのある者であり、疑わしい人物の取り扱いは、このような嫌疑は国家が監視すべきであり、その疑わしい行動を目撃した者はそれを通報すべきである。その典拠は以下のハディース である。
「私(ザイド)が戦士たちの中にいた時、アブドッラー・ブン・ウバイイが『アッラーの使徒の許にいる者たちに施すな。そうすれば彼らは彼の周りから離れていくだろう。もし我々がマディーナに戻れば、下賎な者たちが貴族を追い出すだろう。』と言っているのを耳にしました。私はそれを父方の伯父に(あるテキストではウマルに)話しました。そこで彼(ザイドの伯父かウマル)がそれを預言者に話したので、預言者は私を呼び出され、私は彼にそれを話しました。(ムスリムのテキストでは「私は預言者を訪れ、彼にそれを伝えました」)」
イブン・ウバイイは敵方の不信仰者との交際で知られており、また敵方の不信仰者たちと同様にマディーナの周辺のユダヤ教徒やイスラームの敵たちとの関係も周知であった。それゆえここでは「詮索をするな」(49章12節)との至高者の御言葉で禁じられている人民への詮索と混同しないように、細心の注意を払ってこの問題を扱わなければならない。それゆえここでは、疑わしい人物の場合に限定しているのである。
 「疑わしい人物」とは、実際に交戦状態にあるか、あるいはイスラーム国際法上交戦状態にある敵の不信仰者と交際があると判断される者である。
 なぜなら戦時の政治とムスリムへの加害の阻止のためには、それについて述べたクルアーンとスンナの明文の典拠によっても、それは全ての戦争における敵を含んでいるので、敵方の不信仰者に対する諜報活動は許されているからである。実際に交戦状態にある敵(との交際のある者)については、国家の(諜報)義務は自明であろう。イスラーム国際法上交戦状態にある敵(との交際のある者)についても許されるのは、彼らとは何時でも交戦状態になりうるからである。
 それゆえ臣民(ray)の誰であれ、敵方の不信仰者と交際のある者は皆、合法的な諜報活動の対象となる者、つまり敵方の不信仰者との交流により、嫌疑がかけられるのである。
 詳細は以下の通りである。
1. 実際に交戦状態にある敵については、諜報が国家の義務である。上で述べたことに加えて「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則がそれを確証する。なぜなら敵の兵力、作戦、目標、戦略拠点などを知ることは敵に勝利するために不可欠な事柄であるので、戦事省が管掌するが、それには敵方の不信仰者と実際に交流のある(カリフ国家の)臣民(ray)も含まれる。なぜならば交戦関係にある以上、(カリフ国家の)臣民には敵方とは通常の交流は現実には存在しないのが基本だからである。
2.イスラーム国際法上交戦状態にある敵に対する諜報は許され、彼らが実際に交戦状態にある敵を支援したり、彼らに合流する恐れがある危険時には、国家の義務となる。
イスラーム国際法上交戦状態にある敵には二種類ある。
第一は、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者で、彼らの国に居住している者たちである。彼らに対する諜報活動は戦事省が管掌する。
第二は、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者で、外交使節や協定国民等として我々の国(カリフ国家)に入国している者である。彼らに対する監視と諜報は内務省が管掌する。
 我々の国(カリフ国家)に滞在するイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある(カリフ国家の)臣民に対する監視と諜報は内務省が管掌し、彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある(カリフ国家の)臣民に対する監視と諜報は戦事省が管掌するが、それには以下の二つの条件がある。
第1条件:イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちに対する戦事省と内務省の監視の結果として、国内であれ国外であれ、その(カリフ国家の嫌疑をかけられた)臣民のそれらの不信仰者との交流が、尋常でなく目を引くものであれば、それを公表すること。
第2条件:戦事省と内務省が諜報活動で把握した事実を風紀裁判官(q isbah)に提出すること。風紀裁判官はこの報告を基にその交流がイスラームとムスリムに有害か否かを判断する。
もしこのように行われるなら、我々の国(カリフ国家)に滞在するイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のあるこの種の臣民に対する内務省による諜報、彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者の責任者や代表たちと交流のある臣民の個々人に対する戦事省による諜報は許される。上述のそれぞれに該当する典拠は以下の通りである。
(1)「詮索をするな」(49章12節)とのクルアーンの節の明文により、ムスリムに対する諜報は禁じられている。これは諜報活動に対する一般的な禁止であり、それを特定する典拠がない限り、その一般的(禁止の)表意が有効である。
「アッラーの使徒は『為政者(amr)が人々を疑うと、彼らを堕落させる』と言われた」とのハディース も、これ(諜報の禁止)を確証している。それゆえムスリムに対する諜報活動は禁じられている。そして同じ規定が(カリフ)国家の自国民(rayah)である庇護民にも適用される。ムスリムであれ、非ムスリムであれ、自国民(rayah)に対する諜報は禁じられているのである。
(2)実際に交戦状態にある敵の不信仰者、あるいは外交使節のような協定国民や安全保障取得者として我々の国(カリフ国家)に入国しているイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者、あるいは彼らの国(敵国)にいるイスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者に対する諜報は、全て許されているばかりか、実際に交戦状態にある敵の不信仰者に対しては義務であり、イスラーム国際法上交戦状態にある敵方の不信仰者に対しても危険がある場合は義務なのである。
その典拠は、以下の『預言者伝』の記述の中に明らかである。
「使徒は手紙を書き、アブドッラー・ブン・ジャフシュに2日間行軍するまでその中身を読まないように命じられた。アブドッラー・ブン・ジャフシュは2日間行軍したところでアッラーの使徒の手紙を開封し、内容を読んだところ、そこには『お前がこの手紙を読んだら、マッカとターイフの間のナフラまで進み、そこでクライシュ族を待ち伏せし、我々のために彼らの情報を集めよ』と書かれていた。」
「アッラーの使徒とアブー・バクルはラクダに乗っていたが、アラブ遊牧民の老人の許で泊まり、彼にクライシュ族と、ムハンマド、そしてその弟子たちについて、また彼らについて伝え聞いていることについて尋ねられた。するとその老人は、『あなた方二人がどこから来たのかを明かさない限りあなた方には話しません』と答えた。そこでアッラーの使徒は言われた。『あなたが私たちに話してくれれば、私たちも話しましょう』それで老人が『話せば話す、ということですか』と言うと、使徒は『その通りです』と答えられた。そこで老人は『クライシュ族は何日と何日に出発したと伝え聞いている。もし私に語った者が本当のことを言ったのなら、彼らは今日、某所、某所にいるはずです。クライシュ族がいるところです。』と言った。老人は話し終えると『あなたがたはどこから来たのか』と尋ねた。そこでアッラーの使徒は『我々は「水」から来た』と答えて、その老人の許を立ち去った。その老人は、『水から、イラクの水からか』と言った、と言う。
 それからアッラーの使徒は弟子たちの許に戻られ、夜になると、アリー・ブン・アビー・ターリブ、アル=ズバイル・ブン・アルアワーム、サアド・ブン・アビー・ワッカースを弟子の一団と共にバドルの水場に派遣し、その情報を収集させた。つまりクライシュ族にスパイを送ったのである。」
これらは実際に戦っていた敵であるクライシュ族に対しての(諜報の義務の)典拠であるが、イスラーム国際法上交戦状態にある敵に対しても、交戦が予期されるので、同様に適用される。違いはただ、交戦状態にある敵に対しては、敵に勝つために戦時政策が諜報を必要とするので義務になるのに対し、イスラーム国際法上交戦状態にある敵については彼らとの交戦が予期されるだけなので許されている(義務ではない)ことだけである。そして危険があるなら、つまり彼らが実際に交戦状態にある敵を支援したり、彼らに合流する恐れがある時には、同じく国家の義務となるのである。
このように敵の不信仰者に対する諜報はムスリムに許されており、(カリフ)国家には諜報活動が義務となる。その典拠は、先に挙げたアッラーの使徒のその実践の命令であるが、それはまた「それなしに義務が履行できないことはそれ自体も義務である」との法原則にも該当するのである。
 ムスリムであれ庇護民であれ、自国民(rayah)の誰かが、実際に交戦状態にあるのであれイスラーム国際法上交戦状態にあるのであれイスラーム敵の不信仰者と、我々の国(カリフ国家)においてであれ、彼らの国(敵国)においてであれ、交流するなら、その者は「疑わしい人物」であり、彼らに対しては諜報と情報収集が許される。なぜならば彼らは諜報を許される者たちと交流しているからであり、もし彼らが不信仰者のスパイであれば、(カリフ)国家に害を及ぼす恐れがあるからである。
しかし諜報が許されるこれらの一部の自国民に対する場合でさえ、既述の二つの条件が満たされる必要があるのである。
戦事省は実際に交戦状態にある敵と交流のある自国民及び、不信仰者の国でイスラーム国際法上の交戦状態にある敵の異教徒の責任者や代表者と交流のある自国民に対する諜報を管掌し、内務省は我々の国(カリフ国家)に住んでいるイスラーム国際法上の交戦状態にある敵の異教徒の責任者や代表者と交流のある自国民に対する諜報を管掌する。

第7章.外交
 外務省は、カリフ国家と外国との関係にかかわる事項を、いかなる関係、いかなる事項であろうとも全て管掌する。それには政治の領域と、その一部である協定、和議、休戦、外交交渉、大使の交換、使節や代表の派遣、大使館や領事館の建設、あるいは経済、農業、商業、郵便、電話、無線通信などの諸分野も含まれる。これらの事項は全て(カリフ)国家と外国の関係に関わるので、外務省が管掌するのである。
 執行大臣についての研究の中で既に論じた通り、かつては使徒は、国家やそれ以外の集団との外交関係を自ら司られていた。彼はクライシュ族との交渉のためにウスマーン・ブン・アッファーンを遣わされたが、彼自身がクライシュ族の使節を交渉されることもあった。また彼は諸国の王たちに使節を使わされると同時に、自ら王侯の使節を接見され、また協定や和議を自ら締結された。
 同様に使徒の跡を継いだ正統カリフたちも彼ら自身で諸国や諸集団らの他国人らとの外交を執り行った。また彼らはそれらの任務において自分たちの代行者を任命することもあった。それは、自分自身ができることは他者をその代理に指名することも、その代行を任せることも許されているからである。
 国際政治の複雑化と外交関係の拡大と多様化に鑑みて、我々はカリフが外交に特化した国家機関に代行を委ねることを選ぶ。カリフは、国家の他の統治と行政の諸機関と同じように、それ(外務省)を自分自身で、あるいは執行大臣を介して、聖法の該当する諸規定に則って、統括するのである。

第8章.工業
 工業省は重工業であれ、軽工業であれ、工業に関わる万事を管掌する。重工業には発動機関、機械工業や建設業、材料生産業、電子工業などが含まれる。また工場の中でも公有財産である工場や私有財産であっても軍需産業と関わる工場も同様に含まれる。様々な工場は、軍事政策に基づいて建設されなくてはならない。なぜならばジハード、戦闘は軍を必要とするが、軍が戦うためには武器が要り、軍が最高水準の武器を十分に揃えるには国内産業、特にジハードと深い関係がある軍需産業が必要だからである。
 国家が他国の影響を受けることなく独自の政策運営ができるためには、自国内で武器の製造、改良が可能である必要があり、それによって初めて自分自身の主人となり、どんなに武器が進歩し改良されても、最新最強の武器を保有し、必要とするあらゆる武器を使用することができるようになるのである。そしてそれは至高者が「彼らに対してお前たちのできる限りの武力と軍馬を備え、アッラーの敵と汝らの敵、そしてお前たちは知らないがアッラーがご存知のそれ以外の他の者たちを恐れさせよ」(8章60節)と言われているように、顕在的な敵と潜在的な敵とを共に恐れさせるためなのである。それによって国家は自らの意思を有することができ、必要な武器を製造し、改良し、最高最強の武器の所有が可能なまでに改良を継続させることができ、現実に顕在的な敵と潜在的な敵とを共に恐れさせることができるようになるのである。それゆえ国家は自国内で武器を製造しなくてはならず、他国からの購入に依存することは許されないのである。なぜならそれはその(武器を買い付けている)外国に、カリフ国家と、その国家意思、軍備、戦争、戦闘を支配させることになるからである。
 今日の世界において、武器輸出国が全ての武器を輸出しているわけではないこと、特に最新の武器はそうでないこと、使用法の特定を含む付帯条件なしには売却しないこと、また購入を希望する国の需要によるのではなく売却する国が考える特定の数しか売却しないことは、誰もが見て知っていることである。それは武器輸出国に武器輸入国への支配力と影響力を与え、自国の意思を押し付けることを可能にさせるのである。特に武器輸出国が戦争をしている場合はそうである。なぜならその場合、ますます多くの武器、代替部品、弾薬を必要とするようになり、武器輸出国に自己と、その意思、戦争、体制を質入することになるのである。
それゆえ国家は自前で武器と戦争に必要な道具、代替部品を製造しなくてはならない。そしてそのためには国家は重工業を興し、軍事物資であれそれ以外であれ重工業品を製造する工場を造らねばならない。また様々な核兵器、宇宙船の製造、ロケット、人工衛星、飛行機、戦車、大砲、戦艦、装甲車、様々な重火器、軽火器の製造が可能な工場、工具、発動機、資材、電子工業の工場も持たねばならない。また公有財と関わる工場、軍需産業と関わる軽工業の工場も必要である。
至高者は言われる。「彼らに対してお前たちのできる限りの武力を備えよ・・・」(8章60節)これらは全てムスリムに課された軍備の義務の要請なのである。
 イスラーム国家は、伝道とジハードによるイスラームの宣教を実施する国家である以上、ジハードの遂行に常に備えのある国家でなくてはならない。そのためには、戦時政策に基づく重工業、軽工業が国内に存在し、様々な軍需産業への転用が必要となった時には、いつでも望む時点で簡単に転用できなくてはならないのである。それゆえカリフ国家においては、重工業であれ、軽工業であれ、工業は全て戦時政策に立脚して建造されなくてはならない。こうした政策がありさえすれば、国家が必要とする時に何時でもそれを軍需産業に容易に転用することができるのである。

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